手摺り木版刷の装丁

shinju-oonuki2005-11-24

 
明治期、大正期には手摺木版刷の版画を使った装丁といっても珍しくはないかも知れない。
恩地孝四郎装丁、吉田絃二郎『芭蕉』(改造社、大正15年2月16版、初版は大正12年7月)の表紙は、芭蕉の葉をモチーフにした図案で、手摺木版画が使われている。具象版画ではあるが、手摺木版を使ったこの本は、恩地の版画を使った装丁では比較的初期の作品ではないかと思われる。
 
手摺りといっても恩地自身が自分で摺ったのかどうかはわからない。恩地は「自画、自刻、自摺」を提唱する創作版画運動を推進していたが、出版物の版画を摺るとなると、大変な部数を摺らなければならない。おまけに3色摺りとなると、部数の3倍摺らなければならないので、そうなると芸術家の仕事ではなくなるからだ。お金がなかったから、と恩地は言っているが、恩地の抽象版画作品は、一つの作品につき数枚しか摺らなかったと言われている。
 
恩地邦郎編『恩地孝四郎 装本の業』(三省堂、昭和57年)に記載されている、里見?『直輔の夢』(改造社大正12年1月)は、『芭蕉』とほぼ同時期の装丁作品だが、キャプションには「背文字は黒、中央に灰青色小円。灰青色濃淡2色の重ね刷りをみるとあるいは木版手刷りによるものか。」とあり、果たしてどの装丁が恩地装丁での最初の手摺り木版であるかを断定するのはむずかしい。
 
恩地は装丁家としてデビューするより以前から、版画を手がけており、本来版画家というべきなのかもしれない。
大貫伸樹の装丁探索」72で紹介したように「書窓」13号、第3巻第1号(昭和11年)の口絵に、手摺りの抽象木版画を付しており、版画家としては、『芭蕉』の装丁も抽象木版画でやってみたかったにちがいない。
 
しかし、『書窓』や『感情』の装丁でみせたような抽象画は、自費出版だから可能だったのであり、まだまだ商業出版物の表紙に登場させるほどには市民権が得られてはなかった。大正末に刊行された、正胸白鳥『安土の春』(改造社、大正15年3月)や正宗白鳥『歓迎されぬ男』(改造社、大正15年6月)が刊行されるころまで、時期の熟するのを待たなければならなかったのである。
 
関東大震災から昭和初期までの恩地の装丁を眺めてみると、装画が年代とともに少しずつ抽象化していくのがわかり、抽象絵画が商業出版物に認められていく様子にも置き換えられて興味深い。