明治後期の水彩画全盛時代の幕を開けた3人の英国人水彩画家たちの作品をやっと見つけることが出来た。青木茂『自然をうつす 東の山水画・西の風景画・水彩画』岩波近代日本の美術8(岩波書店、1996年)に、明治末期に来日し、本格的な水彩画を伝えたイースト、ヴァーレー、パーソンズの作品が掲載されていた。いずれも郡山美術館蔵の作品で、「最近になってわれわれはこの3人の作品を見ることが出来るようになった。」と記されており、一度は訪ねてみたいと思っている。



サー・アルフレッド・イースト「荒れ模様」制作年代不詳、水彩画、郡山美術館蔵



ジョン・ヴァーレー・ジュニア「雪の京都、祇園へゆく道」制作年不詳、水彩画、郡山美術館蔵
明治美術会第4回展(1892〈明治25〉年)「ジョン・ヴァーレー(John Verley Jnr.1850-1933)の水彩画が〈風景〉となっている。近代になって『風景』が作品名となった最初であろう。」(青木茂『自然をうつす 東の山水画・西の風景画・水彩画』岩波近代日本の美術8、岩波書店、1996年)とある。


青木氏はこの「風景」というタイトルについて、さらに「もともとLandscapeは〈陸景〉と訳すべきで、牧歌的田園風景の絵がLandscape paintingである。山や水は必要条件ではない。東洋の風景画=山水画は元末四大家のころからは平遠な江南の野色・水景を描くようになるが、もしたとえ水はなくても雲や霞のない絵画は想像も出来ない。明治美術会の「山水」「〜の景」「景色」はモティーフに即しながらも、モティーフが名所絵的なものから地名のない風景画に変わってゆく課程を反映した命名であるといえよう。」と、解説している。



ルフレッド・ウィリアム・パーソンズ「箱根の秋」制作年不詳、水彩画、郡山美術館蔵


この本『自然をうつす 東の山水画・西の風景画・水彩画』のすごさは、三宅克己の『思い出づるまま』に「〈慈恵病院で開かれたヴァーレイの展覧会を〉観た私は忽然自分の進むべき世界の入り口が目前に開かれたやうに思った。ヴァーレイの写生画は水彩画と油絵であったが、何故か私にはその水彩画が淡々たる火焔となって私の心魂に燃え移ったのであった。私は全く狂気の姿でその展覧会の閉づる時間まで、飲食を忘れて見入ったものである。」


「この展覧会を見物した翌日は、夜の明けるのを待ち兼ねて、直ぐに水彩画の写生に出掛けた。」と記されてあり、この時に三宅が描いた作品が、モノクロではあるがマッチ箱ほどの小さなサイズで掲載されていることだ。明治美術の第一人者といってもよい青木ならではの目配りといえよう。



三宅克己「小石川のある寺ージョン・ヴァーレイの個展に刺激された翌朝の写生画」1891年、水彩画
この絵は『ほとゝぎす』第3巻9号、1900年7月に掲載されたものからの引用で原画が見つかっているわけではなさそうだ。


三宅克己は、1892年に東京美術学校で開催されたアルフレッド・パーソンズの水彩画展を観た時の印象を『思い出づるまま』に「その写実の巧妙なことは、未だ曾て見たことも無い程の作で、先年のジョン・ヴァーレイ氏の作画に比すると、数等優秀なものであった。奈良公園の藤の花、吉野の桜、鎌倉八幡宮の蓮の花、また彦根天寧寺の躑躅や富士山などの図、何れも人間業とは思はれぬ程、技巧の洗練されたものであった。パアソンスのこの画を見て以来、私の水彩画熱は一層にその度を高め、終に鍾美館の人物の写生画などすっかり興味を失ひ、午前の教室にはとかく欠席勝にて、ひたすら水彩画の写生のみに熱中することとなった。」と、興奮気味の口調で記している。躑躅(つつじ)の花に葉にかけられたクモの巣まで精細に描き出したパーソンズは、花を描く専門家でもあったようだ。


三宅克己はこの展覧会を観た後の1893年二開催された第5回明治美術会展には、「山水」「春暖」のほか「景色」という作品名で19点、総数21点もの水彩画を出品している。この出品点数の多さからだけでも、三宅がパーソンズから受けた衝撃の大きさを計り知ることができよう。