明治二十二年に、イギリスの本格的な水彩画家が突然日本にやってきた。「そのすばらしい作品は、従来、水彩画というものが油絵を描くための準備だと思っていた人たちに対して、水彩画も油絵と同様、その存在価値を争うべき純粋な芸術作品であることを知らしめたのです。水彩画に対する自覚をあらたにしたことは、日本で純粋な水彩画家という芸術家を当然生み出す契機となり、また画家たちのあいだにもそれを指向するものが多く現れだしたのです。このことが日本における水彩画の隆盛をうながす一つの大きな動機になったことは、否定できない事実なの


「明治二十二年の五月、〈明治美術会〉という美術団体が結成されたちょうどその頃に、イギリス人の著名な水彩画家のアルフレッド・イースト卿SirAlfred East(1849〜1913)が日本に来朝して、京都や奈良を初めとして、日本の各地の風景を写生しました。当時、案内役をつとめたのが水彩画家の石川欽一郎だったので、彼の斡旋で明治二十二年七月六日の第一回総会の際、〈明治美術会〉で講演会を開くこととねり、イースト卿の話を聞いたのです。この会合がもとになって、アルフレッド・イースト卿も〈明治美術会〉に入会することになり、海外会員として尽力してくれることになったのです。」(浦崎永錫『日本近代美術発達史 明治篇』東京美術、1974年)


日清戦争が終ると、日本はあらゆる面において勝者の勇気に燃えて、活発な発展を示し始めました。この勢いにのって、水彩画もまた非常に台頭したのです。その原因がどこにあったかさだかではありませんが、戦勝の結果、日本人は強国になったという自身と意識を強め、多少とも文化的なゆとりをもちたい気持になり、手軽に楽しめる水彩画に手を染める人が多くなったのではないでしょうか。水彩画の人口が多くなり、水彩画を支援する山脈が拡がりますと、優秀な画家も出てくるし、研究も進展する結果になるのです。三宅克己画伯も当時を回想して、こう記しています。〈その頃日本での水彩画に対する一般の期待というものは、油絵に対する淡彩の軽い下図のように見ていた傾向があった。水彩画は出来得るかぎり、淡泊な画趣を上々とされていた風があった。しかし、私はそれも水彩画の特色の一面かも知れないが、また他の半面には、もっと複雑な自然美を自由に紹介する一技術でもあるように思われたのであった。『思い出づるまま』〉この記述の中にもありますように、当時まで絵を描こうとしていた人たちは、油絵をやるまえに先ず水彩画を準備としてやるものだと考えていたことも、手軽に水彩画を流行させた一つの遠因でもあったかも知れません。


そのような考えがまちがっていたことは、すでに専門家たちのあいだで、明治二十二年のアルフレッド・イースト卿の来朝以来わかっていたのですが、一般の人たちのあいだではまだ自覚されず、依然として古い考え方が拡まっていたのです。三宅画伯等はすでに、油絵をやめて水彩画家として身をたてるための研究に入っていたのです。



三宅克己「祠堂」1892〈明治23)年 水彩22.6×29.3cm
このサイズはほぼA4判に近く月刊雑誌の大きさで、作品としてはやや小振りで架蔵の画集には原寸大で掲載されている。三宅の絵は、日が当たるところと影の部分を強いコントラストで描くのが特徴でもある。


「水彩画家になろうと考えていた三宅画伯は、かつて日本に来朝したジョン・バーレイやアルフレッド・バーンズの水彩画を見たり、友人の招来したヒルデプラントの水彩画を見て、専門に水彩画の研究をしなければ、立派な水彩画家にはなれないと考えていたのです。自分たちが本当の水彩画家となるためには、現在の日本の水彩画家たちのように、固定した画法にとらわれている必要はない、とも考えるようになっていたのです。そこで三宅画伯は、自然から感じとった気持を表現する際に、水彩絵具でできるぎりぎりのところまで追及してみようと工夫したのです。こうして彼は、油絵とちがった水彩画の世界に入り、水彩画そのものをつかむために、あらゆる技法上の探求と努力を投じ、研究をつづけたのです。」(外山夘三郎『日本洋画史2明治後期』(日貿出版社、昭和53年)



三宅克己「雨後のノートルダム」1902(明治35)年、36.5×28.5cm 第7回白馬会展出品