三宅克巳のマスメディアでの活躍ぶりについては、明治34年
「12月に再びロンドンへ行く決心をして、神戸を出発したのです。これが彼の第二回目の洋行でした。ところがロンドンに着いてみますと、寒さと霧で描けないので、パリにもどって次の春になるまでパリに滞在して、作画をしていたのです。やがて春になってロンドンへゆき、一九〇二年の秋に日本に帰るまで描き続けました。
一九〇二年(明治三十五年)の暮に、三宅は淀橋角筈に住居を求め、日本における水彩画の全盛期をここで迎えることになったのです。雑誌の〈明星〉の口絵を初めとして、翌明治三十六年の新年号から〈女学世界〉の口絵を毎号描くことになり、それにつづいて雑誌〈中学世界〉、〈文章世界〉などが競って三宅画伯の口絵の水彩画を載せ始めたのです。こうして三宅は急速にジャーナリズムの寵児となり、幸運な人生を送り始めたのです。」とあった。ちなみにこの文章は三宅克巳の『思い出ずるまま』からの引用である。