三宅克己の洋行の成功がきっかけになり、日本の水彩画家たちはあいついで水彩画の研究のため欧米に渡った。

(*明治三十年六月)三宅克己は先ず、わずかな旅費と自分の水彩画をもってアメリカに渡り、その水彩画によってヨーロッパに渡る資金を得て、ヨーロッパの国々を訪れたのです。三宅画伯の方法が成功しますと吉田博、満谷国四郎、石川寅治、丸山晩霞、河合新蔵、大下藤次郎、中川八郎などという水彩画家たちが次から次へとアメリカを経由して、ヨーロッパを廻るコースの研究写生旅行を試みました。そして、この広大な世界旅行によって得たフレッシュな水彩画を、帰朝して各地で展覧したため、日本の大衆はすばらしい欧米の風光美と、水彩画の巧妙さとを総合して、カラー写真を楽しむように水彩画の大流行を生み出したのです。」(外山夘三郎『日本洋画史2明治後期』(日貿出版社、昭和53年)



吉田博「新月」1907(明治40)年 水彩59.5×79.5cm



河合新蔵「水辺」明治末期 水彩48.7×59cm



丸山晩霞「初夏の志賀高原」1908(明治41)年



大下藤次郎「穂高山の麓」1907(明治40)年 水彩47.5×67.5cm


と、明治三十年六月の三宅の洋行が多くの水彩画家たちの研究写生旅行を誘い、帰朝後の作品展覧が水彩画の大流行を生み出した、と結論づけているが、果たしてそれだけで大流行が起きたのであろうか。これらの展覧会に一体どれほどに人が足を運んだのだろうか。そう考えると、他にも大流行の原因はありそうである。


それにしても、掲載した水彩画はみんな風景をテーマにしており、完成度が高く油絵のようなこってりとした深みがあり、いわゆる淡彩風の水彩画とは一味違う重厚な味わいが感じられる。
当時のイギリスの水彩画についてはあまりよく知りませんが、多分このような描き方が主流だったのではないかと思う。
ルフレッド・イースト卿の水彩画についても、全く目にしたことはありません。写真資料などをご存知の方がおりましたら、ぜひお教え願いませんでしょうか。