2009-07-24から1日間の記事一覧

当時の水彩画ブームの勢いについては、このころ発行された水彩画に関する刊行物の数の多さからも裏付けることができる。

・大下藤次郎『水彩画の栞』(新聲社、明治36年) ・小林鐘吉『水彩画一班』(明治36年) ・大槻虎軸『スケッチの栞』(明治36年) ・大下藤次郎『水彩画階梯』(明治37年) ・織田一麿『水彩画法』(片山富文館、 明治37年) ・大下藤次郎「みづゑ」創刊号…

「一般の青年男女の間に洋画の趣味が広く普及したのは、恐らく明治三十六年頃からであろう。その結果として最も素人の近づきやすい水彩とスケッチとが多くの青年男女によって試みられるようになり、作家もまた啓蒙活動に力を尽くし、中村勝治郎、大下藤次郎、三宅克己などによって、それぞれ水彩画法の冊子が刊行されて、世にむかえるところとなった。明治三十八年七月には、大下の主宰する水彩画研究団体春鳥会で、機関誌《みずゑ》を創刊し、年毎に読者の数を増していった。明治四十年七月には、丸山晩霞の《女性と趣味》がでた。これは水彩画手引

「日本における水彩画が非常な勢力を持って台頭していったのは明治三十年代の初頭で、明治三十三年に第五回白馬会展が開催された時に、ちょうど帰朝したばかりの三宅克己が滞欧作品を出陳して、会員に参加したことも、大きいセンセーションとなったのです。彼の海外研究の成果をみることによって、もはや言葉で述べなくても水彩画が油絵と同等のもので、独自の芸術であるということを立派に証明してくれたからです。彼はその堅い意思をもって、雄々しくも日本の水彩画の発展のために戦いつづけていったのです。東京の各新聞は水彩画家三宅克己の芸術

このことは、三宅克己自身も 「二ヶ月における欧米にての私の制作画は、自分で今いうのはおかしいが、それはそれは貧弱な日本の水彩画界を賑わした。黒田先生はぜひとも白馬会に出陳を頼むといわれて、私の水彩画は白馬会のおもなる呼び物として陳列されたの…