「日本における水彩画が非常な勢力を持って台頭していったのは明治三十年代の初頭で、明治三十三年に第五回白馬会展が開催された時に、ちょうど帰朝したばかりの三宅克己が滞欧作品を出陳して、会員に参加したことも、大きいセンセーションとなったのです。彼の海外研究の成果をみることによって、もはや言葉で述べなくても水彩画が油絵と同等のもので、独自の芸術であるということを立派に証明してくれたからです。彼はその堅い意思をもって、雄々しくも日本の水彩画の発展のために戦いつづけていったのです。東京の各新聞は水彩画家三宅克己の芸術


このことは、三宅克己自身も
「二ヶ月における欧米にての私の制作画は、自分で今いうのはおかしいが、それはそれは貧弱な日本の水彩画界を賑わした。黒田先生はぜひとも白馬会に出陳を頼むといわれて、私の水彩画は白馬会のおもなる呼び物として陳列されたのであった。容易に会員に推薦せぬ白馬会も、当時礼を厚うして私を迎えてくれた。


……白馬会に出品した私の欧米漫遊中の作画は、家なり強いセンセーションをわが洋画界に与えたように自分にも思われた。その頃美術専門の雑誌は未だなかったが、各新聞の美術批評家は、私の水彩画について、揃いも揃って真剣に評論してくれた。なかんずく読売新聞の関如来氏などは、筆をきわめて称賛の辞を並べてくれた。」(三宅克己「思い出ずるまま」)
と、黒田清輝からの手紙を添えて記している。