石井鶴三、新聞の挿絵についての講演録

石井鶴三「挿絵寸感」(『明治・大正・昭和 挿絵文化展記念図録、昭和16年)に、鶴三の挿絵芸術論とも言うべき新聞の挿絵についての講演録が記載されているので再録させていただく。


「現在挿繪と云われて居るものにはいろいろ種類がありますが、其中で私が非常に面白いと思って居るのは新聞紙上に連載されて居る處の小説の挿繪であります。これは單に小説に添付された畫としてのみ見ないで挿繪は本文の小説と組み合つて一つの作物を成して居るのであると、斯う見たいのであります。つまり文と畫とが合同し協力してそこに特殊な一境地が現出されて居ると言ひたいのであります。かういふ風に見ないで、小説といふものを單獨に離して、その小説に挿繪が添へてあるに過ぎないといふ風に見ると、甚だ現在の實情にそぐわないのであります。それから尚ほ忘れてはならぬのは、新聞の上を舞臺として、この小説と挿繪とが組み合って活躍して居る此の舞臺を忘れてはいかむと云うことであります。新聞紙といふもの即ち新聞當事者の隠れたる努力といふものを矢張見なければシックリと來ない。これが一般に閑却されて居るが、新聞社側の努力の如何に依つて、良い作品が出來たり或いはそれ程でなかつたり、それから又本文作者と挿繪畫家との間が旨く行つたり行かなかつたり、いろいろになりますが、これは芝居とすれば舞臺監督のやうな仕事で陰に隠れた、椽の下の力持ちのやうであるが、これは新聞連載物にとつては相当大切なものだと思ひます。斯う見て戴かなければならぬと思うのであります。

 それから一般の人が、餘り此、斯う云ふ作物の成立について御承知が無いやうでありますが、中には連載の小説といふものは全部出來て居るものを、一回宛載せて居るかの如く思って居る人がおありのやうであります。而して挿繪畫家といふものはチャンと出來て居る小説を讀んで、その中から一回一回一枚宛描いて行くかのやうでありますが、実際はさうでなく本文作者は少しづゝ二三回は五六回、甚だしいものは毎日一回づつという風に書いて行くのであります。全篇を通じての腹案といふものは勿論作者は持って居りますが、決して作の全軆が出來て居るものではない。其少し宛書かれて行くものが、其都度新聞社を通じて畫家の方へ廻って参り、それによつて挿繪を描いて行くのであります。本文の最初の二三回分は或いは挿繪から離れて畫かれて居るかも知れませんが、其後は挿繪が紙上にあらはれてから次ぎつぎと描かれて行くので、自然此の挿繪の影響といふものが本文に働くのであります。挿繪を描いて居る私が言ふと變に聞こえるかも知れませんがそれが事實で本文作家が挿繪畫家の影響を受ける事は當然だと思ひ挿繪畫家が本文に依って繪を描く以上、本文の影響を受けるのは當然であると同様、本文の作者も挿繪を見ながら次々と描いて行くので自然その影響を受ける事もまた當然なのであります。


作物の位置としては本文が何處までも主であって挿繪は従でありませう、けれども切り離して一つの作物として見る時、どつちかが従、どつちかが主といふ事は言へないものと思ふのであります。一方は文、一方は繪、どちらも獨立して一つの作であります。それが組合って、片つ方が主の位置に据はる、一方が従の位置に据はる、而して双方協力して境地を作つて行く、即ち文と繪とで一つの藝術的作品をなす、斯う見るべきであらうと思ひます。


或る小説作家が私に斯う申されて居った。
挿繪との関係は、義太夫に於ける太夫と三味線の關係の如きもので、どうも、三味線が拙いと語り難いやうに、挿繪が拙いとどうも小説がよく書けない、これに反して挿繪が好いと、小説が巧く書ける。


と斯う申されたのであります。全くさやうな関係になつて居るかと思ふのであります。

さういふ譯でありますから、小説の挿繪を描くことは非常に責任の重い仕事で、單獨に展覧會に出すやうな繪の場合であれば、單に作者一個の責任で、ヘンナ仕事をすれば本人が恥を掻くといふ事で濟むかも知れませんが、小説の挿繪の場合には、決して挿繪畫家一個人が恥を掻くだけでは濟まないのであります。累を本文の小説、ひいては其作家にまで及ぼすことになるので非常に責任が重いのであります。私はいつも此の事をわすれないのでありますが、どうも思ふやうに描けません。冷汗もので、慚愧の次第であります。」