挿絵画家・堂昌一の略歴を作っていたが、若い頃のデータがなかなか見つからずにいた。が、「粋美挿画展」への出品作品を借りるために堂前家を訪問し略歴作りの困難さ明かすと「文芸随筆」に連載執筆された記事を出してくれた。今回は堂昌一「戦中から流れて」(「文芸随筆」NO.44 、2007年)を紹介しよう。


昭和十七年、中国での四年半続けてきた戦争初戦の勝利を発表し続けた、大東亜戦争大本営。国民は喜んでいましたが物資の不足は深刻で、絵の具は配給制になり、何れかの絵画団体に属していませんと配給がありません。“聖戦美術展”“大東亜戦争美術展”等の公募展があり、私は80号の戦争画を出品し、めでたく日本陸軍美術協会の会員になり、英国大使館の近所にあった協会に絵の具を貰いにいきました。


 通っていた、本郷絵画研究所に週一で教えに見えていた、中村研一先生に「お前たち、へたな絵を画いていないで、兵隊に征け」と怒られて、私は志願兵として千葉県館山の州崎海軍航空隊へ入隊しました。三ヶ月後横須賀の追浜海軍航空隊に転属となりました。毎日、山腹に掩体壕(えんたいごう)を掘ること、夜になると古参兵のリンチ、つくづく厭になりました。


その頃、航空隊に「射爆研究室」と云う部署があり、民間から「耳野卯三郎先生」、「三田康先生」達が徴用されていました。
 徴用した芸術家の先生達は戦闘機や軍艦の絵は上手に描けません。軍国少年だった私は得意中の得意であります。
 私は聖戦美術展に出品した私の絵ハガキを見せて研究室で働きたいと申し込みました。少佐は直ぐに採用してくれました。


 撃墜したB29とグラマン戦闘機の機体が追浜にきました。アルミ弁当箱を張り合わせたようなボディの“ゼロ戦”と、高級乗用車のようなボディと、見比べると神国日本もひょっとするとひょっとするんじゃないかと思いました。B29の機内から分厚い冊子を押収しました。内容はB29の各部の取扱い方法やイケメンの兵隊がそれぞれの戦闘機を整備する場面が絵で表現してあるのです。遅れ馳せながら、赤い表紙の軍機とか書いてある字ばかりの取扱説明書でないものを作りたかったのだと思います。


 昭和十九年十月。追浜からも夜間戦闘機「月光」が胴体に爆弾を抱いて出撃しました。
 特攻には必ず戦闘機の待ち伏せがあるので、これらと闘って排除し特攻機が目標に体当たりするのを守る直掩機も同時に出撃しました。
 陸海軍合わせた出撃機、フィリピン方面四二一、沖縄方面一八〇九、直掩機二三九、計二四六九機。撃沈敵艦船三五八隻。



堂昌一:画、「戦中から流れて」(「文芸随筆」NO.44、2007年)


 私は築地の海軍経理学校から復員しました。そして銀座で、姉と喫茶店を開店しました。漫画集団の事務所がすぐ近くにありましたので、いつの間にか漫画家のたまり場になりました。雑誌や新聞の編集者も集まり、私が絵を描くのを知られ、「カット」や小さい「さしえ」を描くようになりました。私は一度も見本の絵をもって出版社を回ったことがありません。週刊文春に連載中の松本清張先生作の「西海道談綺」の岩田専太郎先生の死去により、連載さし絵を引継いだ時、やっと半人前になれたと思いました。