しかし、海野弘は「黒田が帰ってくるのは明治34年の五月であり、藤島は同じ年の一月から『明星』に描きはじめており、この頃はほとんどアルフォンス・ミュシャの線をマスターしていたのだから、おそくとも前年の明治三十三年(1900年)にはアール・ヌーボー調のカットを描いており、おそらくは一八九〇年代後半、明治二十九年(一八九六年)、白馬会に入った頃から世紀末美術に触れていたと思われる。なぜなら、藤島は明治三十年前後に描いた『挿絵、カット帖』とよばれているスケッチ帖を残しており、ここには世紀末のポスターや雑誌から写し


さらに「ヨゼフ・サトレルの描いた雑誌「パン」(一八九五年)の表紙、トーマス・テオドール・ハイネの描く雑誌「ジンプリツィシムス」の表紙、セセッション展のポスター、グールビ画廊のラファエル前派展のポスター、ウィリアムス・ニコルソンの版画、その他、ミュシャビアズリー風の絵の模写などをここに見ることができる。ベルリン、ミュンヘン、ウィーン、ロンドン、パリなどの世紀末のポスターや雑誌が当時、日本に流入して、藤島の目に触れていたわけであり、アカデミックな絵の修業のかたわらで、これらの不思議な形を夢中になって写していた有様が浮かんでくる。」(前掲書)と、「明星」へかかわる前、更には黒田清輝が帰国する前に、すでにアール・ヌーボーミュンヘン・セセッションなどのヨーロッパの世紀末美術をくまなく俯瞰していたはずだという。


では、藤島は一体どこで、ポスターや雑誌などのたくさんの外国の資料を目にしていたのだろうか。



第5回白馬会展覧会会場にて 1900(明治33)年
白馬会の第5回展、第6回展には西欧世紀末のポスターがたくさん出品され、この写真の右端には、カルロス・シュヴァーベ「薔薇十字展のポスター」、アルフォンス・ミュシャ「トスカ」のポスターが写っている。左から二人目の胸に白いハンカチが見えるのが藤島武二。ということは明治33年には、これらの西欧世紀末の作品を見ていたことであり、「明星」にかかわる前から世紀末美術に触れていた、とする海野の説を後押しする資料でもある。
写っている人物と大きさを比較してみるとその大きさを推測できるであろうが、カルロス・シュヴァーベ「薔薇十字展のポスター」は、ほぼ縦2mもある。



カルロス・シュヴァーベ「薔薇十字展のポスター」1892年、 199.0 x 80.0cm



アルフォンス・ミュシャサラ・ベルナール劇場 トスカ」のポスター、1899年 104.0x38.0cm