まだ四十九日も済まないというのに、11月3日まで神保町・東京堂書店で只今開催中の「粋美挿画展」に出品する堂昌一(本名:堂前證一)先生の作品をお借りするために無理を言って10月19日に両国のお宅を訪問させていただいた。お嬢様と奥様が作品を用意して待っていてくれた。3時に訪問し終ったのは22時30分だった。その間、堂先生のアトリエでたくさんの資料を見せていただいたり、思いで話を伺ったりしながら、星恵美子先生や沢登みよじ先生、お嬢様の3人は展示用の作品を選び出しパネルにどんどん貼っていった。堂先生は几帳面な方で


私は体調不良を理由に展示の準備作業には加わらず、同大な数の作品の選択基準を「木枯し紋次郎」を中心にすることを決めたり、略歴の空欄を埋めたり、堂先生のもう一つの雅号の話を奥様に聞くなど、比較的楽な作業に携わった。略歴については「文芸随筆」No.38(日本文芸家クラブ、2000年)や、このバックナンバーに4回に渡って寄稿された文章があるので、紹介しよう。


あね・おとうと   堂昌一
 川口松太郎先生が、岩田専太郎先生のさしえを評して、「岩田君の描く女には、妹のとし子さんが居る」とおっしゃいましたが、私の描く女にはどこかに姉、まつ子の面影があるような気がします。
 幼くして父を失った私と母は、浅草の花柳界と吉原に挟まれた象潟(きさかた)町の、大きな建具屋に嫁いだ姉に引き取られました。それ以来いろいろありましたが、銀座、赤坂、神楽坂と、平成九年姉が亡くなるまで六十四年余一緒に暮らしました。


 その頃、吉原の大きな妓楼では初午に、模擬店等を出して、出入の商家や職人の子供達を呼んで、賑やかにお祭りをしました。
 当時五歳の美少年? だった私は花魁に可愛がられました。私の性のめざめは花魁の脂粉の香りと、打掛けと腰巻きの原色でした。 
 その横に長屋があり、そこには牛すきの「米久」の中居さんや、吉原の、“やりて”と、“牛太郎”旅廻りの浪曲師、私に浮世絵の良さを教えてくれた老蒔絵師、吉原の花魁が郭を抜けて駆け込んできた、いなせな草履職人等が住んでいました。


 夏になると、倶利迦羅悶々の背中に手拭いを掛けて屋台将棋、線香花火と、猥談、夜中の賭博に手が入って、屋根の上を逃げ回るおじさんやおばさん達、花月劇場の二枚目俳優と待合の娘のラブ・シーン。目から耳からもいろいろと教育されて、随分とませた子供になりました。

 町内の鳶の頭のシカさんちのお玉ちゃんは十四、五歳か“俺”“お前”と江戸っ子弁で、荒い言葉の裏に優しい女らしい、やさしさのある、小股の切れ上がった引っ詰め髪のよく似合う、町の少年達の憧れの君でありました。


 十六歳ごろから本郷絵画研究所で、デッサンの勉強をしていました。研究所にはさしえ画家土井栄さんと中尾進さんがいました。土井さんは当時二十歳代後半で、下谷の坂本に住んでいました。四十歳位のおばさんと、妙齢の娘のやっている下宿屋でした。


 土井さんが、ときどき赤ん坊を抱いていて俺の子と言っていましたので、てっきり娘との間の子と思ったら、おばさんとの子でした。土井さんは婦人雑誌にさしえを連載していて唯一の高額所得者でしたので、よくみんなにご馳走してくれました。酔うと必ず近くの吉原を素見(ひやか)しに出かけます。そして私は童貞を失いました。十七歳の冬でした。


 大東亜戦争はますます過酷な様相を呈してきました。研究所の中村研一先生に「非国民ども!! 兵隊に行ってお国のために死んでこい!!」と言われ、予科練終戦の時は横須賀の追浜航空隊、そして終戦、その間女性とは無縁でありました。
 戦後、銀座で姉と喫茶店を開きました。近くにまんが集団の事務所があり、店は集団のたまり場になり、私も雑誌や付録にカットを描くようになり金が入ると、山下紀一郎さんなんかとよく悲しい恋を求めて色町の路地をさまよい歩きました。(つづく)