2010-03-09から1日間の記事一覧

しかし、海野弘は「黒田が帰ってくるのは明治34年の五月であり、藤島は同じ年の一月から『明星』に描きはじめており、この頃はほとんどアルフォンス・ミュシャの線をマスターしていたのだから、おそくとも前年の明治三十三年(1900年)にはアール・ヌーボー調のカットを描いており、おそらくは一八九〇年代後半、明治二十九年(一八九六年)、白馬会に入った頃から世紀末美術に触れていたと思われる。なぜなら、藤島は明治三十年前後に描いた『挿絵、カット帖』とよばれているスケッチ帖を残しており、ここには世紀末のポスターや雑誌から写し

さらに「ヨゼフ・サトレルの描いた雑誌「パン」(一八九五年)の表紙、トーマス・テオドール・ハイネの描く雑誌「ジンプリツィシムス」の表紙、セセッション展のポスター、グールビ画廊のラファエル前派展のポスター、ウィリアムス・ニコルソンの版画、その…

1901(明治34)年第6回展に出品した「造花」では浪漫風(情緒的装飾風)な表現を試み、それがちょうど与謝野鉄幹・晶子によって1900(明治33〕年に創刊された「明星」を中心に、文学界で高まってきた浪漫主義に呼応するということで、明治34年1月1日発行の「明星」第10号からアール・ヌーボー風の挿絵を描くようになり、11号からは一條成美に代わって表紙も描くようになる。このことが、美術と文芸の協調という複製芸術を評価しようとする風潮の中心に立つようになり、藤島は新たな評価を得ることになる。

藤島武二:画、「造花」1901(明治34)年 藤島武二:画、「明星」1901(明治34)年 一条成美の後を受けて藤島武二が最初に描いた「明星」の表紙。表紙は1年ごとに新しい挿画に変えられ、以後6年間担当する。 藤島武二:画、「明星」1902(明治35)年 アルフ…

藤島武二にいち早く西欧の資料を見せたのは誰か? という疑問は、藤島自らの言葉で解決することができたようだが……。多少の疑問も残る。

「私が本当に洋画を研究したのは、美術学校助教授に就職してからである。教務を為すの傍ら、黒田君の懇切なる薫陶を受けた。特に同君が友人の態度を以て親切に指導して呉れた雅量に感謝してゐる。久米君も亦直接、間接に技術上有益な忠告と助言とを与へられ…