「今のやうに凸版は生まれず、また冩眞版を使ふ樣なこともなく、全部木版だった。讀者の側で専ら密畫(みつぐあ)を喜んだので畫家もそこに意を用いて出来るだけ細かにかいた。彫刻師も亦綾になつてもつれてゐる髪の毛などを手際よく彫るのを自慢にしたが、どうして彫ることが出来たかと不思議に思はれるやうなものが今尚たくさん残されている。


 新聞の場合は木版を鉛版にとつて印刷したが、綺麗に上がることを主眼とする雑誌は木版をそのまゝ印刷にしてよい紙を選んで刷りにかけた。つぶしの版などは木目がそのまゝ残ってゐるやうな挿画がいくらもあつた。しかし、當時の巨匠が心血を注いでかいた繪も、雑誌社や新聞社で粗末に扱はれたために、大抵散逸してしまひ、今殆ど見る機會がなく、私などそれを非常に淋しい氣がする。



月岡芳年:画、「みやこのはな」掲載挿画。これが木版刷りだというから驚く。まるでペン画の様な細密さだ。


 さて、芳年といふ人は純粋の江戸ッ子で。目の大きな、小肥りのがしつりしたからだつきの人であった。若い時代は浮世絵師だったらしく、恐らく職人肌なところを多分に見せてゐたのだろうと思ふが、私の知る頃は、大家らしい風格をそなへ、明治時代の藝術家に共通した物分りのよい何處かいなせなところがあった。



月岡芳年:画、上「みやこのはな掲載『一本富士』挿画」、下「やまと新聞掲載挿画」

それで一寸の下卑な感じがなく、大店の旦那と云つた落付もあつた。大體そんな風に感ずる人柄だった。しかし私は勿論芳年の弟子ではなく御客にあそびに行つて時たま接したに過ぎないのだが、そのやさしい方面だけを見てゐた譯で、弟子には仲々きびしく『馬鹿野郎』とどなりつける位は尋常のことだったと思ふ。


いたづら好きで、しかも皮肉なたちも多分に濃かつたさうである。生活はかなり華美で、藝事が好きだった。或る年、自分の家の庭へ箱庭を沢山作り、弟子達に手傳はせて箱庭の人形の下繪をかいて注文して焼かせたと云ふが、そんな風に道楽に凝つて夢中になる一面もあつた。(談)」