「明治四十一年、漱石(以下諸家の敬稱を省くことを許されたい)が、『朝日』入りをした。在來堂紙面の二つの通俗小説を一つ、純文藝作と代へるに就いて、一方浮世絵系の年英を前のまゝとして、別に新人を求める必要から、『大朝』に九甫、『東朝』に私が選ばれた。
後に新聞営業の都合から、大正五年頃また霞亭もの等に逆轉したため、私の挿畫も冩眞版の説明的なものとなるまでの約十年を、私は漱石の『三四郎』他数篇、二葉亭の『平凡』藤村の『春』草平の『煤烟』鏡花の『白鷺』花袋の『残雪』潤一郎の『鬼の面』長塚節の『土』その他、吉蔵、荷風、古峡、秋聲といつた人々の、いずれも當時問題視された作に装畫や挿畫の新生面を啓く事に努めた。
同じ頃、『国民』に龍子が、、虚子、三重吉、さういつた人の新作に相應しい挿畫を、清新な筆致と構圖で描いてゐた。これより少し以前『平民新聞』『電報新聞』に、百穂が既に、尚江、秀湖、春葉、掬汀あたりによる小説に新樣式の挿畫を描かれたのを知る人は少ない。
以上は浮世絵系でなく純洋畫でなく、本文の單なる説明でない、畫韻と風格に新鮮な味と調子を湛へた、各、個性に随って工風した、當年のモダニズムちいふべきものであつたから、その作家達や、批評家や、先端を愛する人々の間には相當な反響を以て迎へられた。」(つづく)