繪巻物と挿繪の形式

日本に古來より傳わって居る各種の繪巻物こそ挿繪として尤も感ずべき尊敬すべき仕事である。挿繪に關心を持つものは奮って大いに研究すべきである。今一々その巧さを説明する要はないが、その省略とその連絡とその要點の把握と──實に驚歎を禁じ得ない。


新聞や雑誌の挿絵もかう云ふ形式を採用する事を提議したいと思ふ。實際は中々六ヶしい企かも知れぬが、経営者と作者と畫家とが相互によく理解しあって協同して遂行すれば可能であらうと考へられる。


絵巻の中に、一形式として今日の映畫の如き、動き(時間的な)を=徑過を=同一の場面の中に盛上げて次々と表現して行く方法なぞは、甚だ愉快にして挿繪として適切妥當なる手段たるを失わない。私は今度の挿繪全集の繪を描いて見て適切に此の事を考へたのだ。



それは描いてみてよく分かったが自分の考へて居る眞の挿繪の形式と云うものはこれでは面白くない、之では口繪の樣な限られた画面の羅列に過ぎないと思った。之では挿繪の面白さは出ない。ある一場面の時間的経過の動きを描き表はす事が挿繪として有意義なのだ。



斉藤五百枝:画、直木三十五「由比根元大殺記」(『名作挿画全集』第2巻、平凡社昭和10年



斉藤五百枝:画、直木三十五「由比根元大殺記」(『名作挿画全集』第2巻、平凡社昭和10年



斉藤五百枝:画、直木三十五「由比根元大殺記」(『名作挿画全集』第2巻、平凡社昭和10年


しかしながら現在の如く想を練る餘裕もなく締切時間に壓迫されて、四五時間の中に描き上げなければならない様な状態にあつては行われる筈はない、佳いものが出来ぬと云う事は、止むを得ぬ事であって挿繪畫家の罪ではない。


席畫の様なものに中々佳品が得られないのを云ふよりも挿繪の場合はもっと無理な絛件が多いのである。挿繪はその大部分が極めて怱忙の仕事であることを誰人も知って置いて貰いたい。(つづく)