私を始めに煩悶させたのもその源は矢張その様な點であったと思ふ。之等は何れも挿繪と云うものゝ性質や使命を深く考へなかったに帰する。今までは私も全くさう云う考えへは少しも持って居ない、之れは、文學でも他の科學でも、そう一概に簡單に片附けべきものではない。


純文學と大衆文學との異ひはどこにあるか、その可否はどうであるかは一朝には裁斷は下し得まいし、たとへば、科學を通俗的に説明したからと云ってもその眞理には異なる處はない様なものであるし、お能楽が高尚であるから映畫より数等優れた價値があるものとの即斷も許されまい。


刺身がうまくて香々はまづい、官員様が上等であって小使が下等だとも云へない。どんな形式の繪でも元は同じ道を通じて出て來るものであるから、たとへ展覧会の作品でも、挿繪の作品でも、同じくらい作者の、思想を通じて現れるのであるとすれば、それが通俗であると脱俗であるとで、其生まれ出たものに高下はない筈であある。


入り難いか入り易いかで區別されべきでもあるまい。挿繪の本來は、夫等の人が思って居るも深く高く、且つ社會に必要性の重大を意味する藝術の一種であって、私は今一生を托して携わるべき性質の仕事だと思っている。


ただ現在多くの場合、挿繪が極く通俗の讀物の飾りものか添物として見られて居る為め、さう云ふ一端だけを以て挿繪の本來を下等な仕事と認識するのは當たらない。さう云う事から云へば最高の芸術であるかの様に一般が考へて居る展覧會の列品も實は販(うら)ん哉であり、當らん哉である。


悪臭紛々たる代物が多いから、同じ事である。あれが上で之れが下だとは無論云へた義理ではない。要は筆者の品性と修養とによるだけのものであるから、何れの方面も、自他共に戒心一番を要する事だ。(つづく)