挿絵と新しき日本精神

 日本の挿繪の現在の風潮を極く大別すると、西洋畫樣に影と光とを以て冩實的にいくものと、多くの場合描線によりて形象を描く日本畫風のものとの兩方面があるが、私は日本人として此の點大いに考慮を要すると思ふ。


蓋し、東洋には直ちに悟りの堂奥に突入せんとする禅の如きがある如く、精神を重んじて端的にその眞髄を把握せんとする日本美術と(現行流行の展覧會で見るものは大分異って居るが)、何處までも科學的基礎に立脚して写實の伝統を持つ西洋の美術とは(現今のパリのアバンギャルドのものは、その原理に於て寧ろ東洋風のものがあるが)、その民族的精神の根本に異常なる相異があるのであるから、日本人としては、西洋畫風の写實力に對しては、何としても劣るのを免れ得ない。


殊に挿繪に於ては、その多くの場合科学的の製版印刷の工程を徑て人に見ゆるものである為め、その徑濟力と技術の精妙とが遺憾ながら彼等に一籌を逾する點にある現今の我国では随分な損である。これと彼我民族性の相異との點を並び考へる時は、日本民族の性能を、より大に発揮せしむべき藝術としては何處を強調、邁進すべきであるか。


かの世界的に聲價を得たる處の浮世繪は、その原始的とも評さるべき手工の木版技術と、表面稚拙とも謂はるべき繪畫技術とが相俟って、こゝに世界獨歩の絶大なる優秀芸術品を醸出した事は我等として、日本挿繪畫家としては充分に焦慮を要する大きな問題であると思ふ。



美術の中心たる巴里の畫壇に於ては昔日の表面冩實の美術技巧が行きつまりつゝ新樣の大本は未だ確乎として樹立するに至らない現状に於て、我等日本人は何に向かって、その日本獨自の美術的長所を求むべきか、挿繪界と雖(いえど)も大きな世界の新思潮に影響さるる運命にあるのであるから、當に再思三考の秋である。


本場の捨てんとする技法の長所を、一層深く錬磨探求してその根本をつかみ、想に於て日本民族としての古き傳統の流れよりその腐水を除きたる純粋無垢の泉に生けて、こゝに新しき日本精神の誇りを輝かさねばならないのであらう。


徒に日本の舊(ふる)き殻を唯一のものとして故人の作を模するを能としてもなるまいし、西洋の冩實を眞似(まね)て及ばざるは拙であるし、西洋の新傾向の一点張りであるのは益々悪い。日本精神の基本に新美を創造すべきである。(つづく)



斉藤五百枝:画、直木三十五『由比根元大殺記』(『名作挿画全集』第2巻、平凡社昭和10年