今回は、田中比左良「僕の通俗辧(上)」(『名作挿画全集』付録「さしゑ」第二号、平凡社、昭和十年七月)を転載させていただこう。

この問題に就いて現在の僕はさう氣にしてゐないのであるから活字にする必要もない野であるが、こんな場合に一寸言って置くのも多少とも自他の為になると思うへるのでかいてみるのである。
 ほんたうは卑屈めいた通俗辧なぞ辧訴的な標題よりも、衆愚を相手に衆生済度的殉教苦衷的職場にいそしむ我等としてみれば僕の通俗讃と命題したいほど高邁な氣持も事實胸奥に燃えるのであるが、さうなると夏向き暑苦しくなるから、やゝへり下って先ず辧訴的手法で婦人雑誌向き挿絵畫家として己を辧じ解説し、併せてこの分野に進出希望の畫學青年の道しるべともしたいと思ふのである。


僕の繪は殊に女性畫は近來批評家や畫學青年にあまり評判が良くないやうだ。これは併しほんの一部の狭いクロウト業の聲であって大多数見物業の心証は必ずしもさうで無いやうであるから、かういふことを僕自身公言するのは本當はリコウな人間のすることで無いか知らんが、さうした損得を超越してものをいふのである。


初手から反感を含んで冷眼悪罵する口等は問題外だが、僕の繪の非難を綜合すると結局、甘く生ぬるい人形美の範疇に跼蹐(きょくせき)してリアルに徹した生きた女性生活を描いてゐない不懣、この一點のやうである。


この非難は然し辧駁の張合ひも無いくらいアホらしい非難である。一言にしていへば僕はジャーナリズムからお人形美の美人畫を要求されてお人形を提供してゐるのであるから、人形屋に向かって「お前は何故人形を作るか」と叱るやうなものである。


だが現在の通俗雑誌の編輯者も時勢につれて単なるお人形美、在来の浮世絵美人畫では氣に入らないので、マネキン人形にやゝ活を入れ匂やかで明朗な表情を漂はせた程度の生き人形を欲するやうになったので、僕はその趣向の女の繪を提供しているのである。


だが綺麗事を金科玉条と心得ねばならぬ事に變りは無いので、かき度くとも路傍印象直接な體臭のにじみ出るやうな面白い先端娘や頬骨のたかいトンガリ眼の東洋女の厳抜乎き差しならずこれを容認する新聞雑誌は甚だ少ないのである。


編輯者さへ許せば僕は大和なでしこ独特なオカメ顔の面白みや、豊頬に埋もれた細い眼の可憐さや、大根足の素朴重厚味や、芋ころのやうにコロコロした愛くるしさや、いわゆるモダンガールといふ種類の日本人の造型に西洋式粉飾の融合の美しさや、等々々クロウト衆の註文にぴったり合ふものを描き得ないわけぢゃなし、又その方がどれだけ描くほうが面白いかしれないが現在の通俗ジャーナリズム殊に婦人、家庭等を対照にした雑誌では絶対に受付けないのである。



田中比左良:画、「ウェートレス」(『現代漫画大観』8巻口絵、中央美術社、昭和3年10月)


田中比左良:画、『大正昭和女性の風俗六十年』(主婦の友社、昭和52年)



田中比左良:画、「牛島屋女中」(『現代漫画大観』8巻口絵、中央美術社、昭和3年10月)


かと言って編輯者の身になってみれば商品価値の點から無理もない次第で一概に編輯者を難ずる事は出來ないのであるが。(つづく)



田中比左良:画、「女髪結」(『現代漫画大観』8巻口絵、中央美術社、昭和3年10月)