コマ絵の誕生と洋画家の参入

「江戸末期の読本草紙類の画文あい半ばする浮世絵師と戯作者の共働は、明治に入って活版印刷の登場と共に、文主画従と比重の変化はあったけれど、暫く変らず、20年前後から日本画家も小説挿絵に用いられるようになったが、こうした挿入絵画は、旧幕以来、板下とよばれるのが普通であり、今日のように挿絵という語は、小説に付される絵という限定された語意ではなく、文中に挿入された写真を含めての図版類一般を意味していた。明治中期の文芸雑誌は、この板下のほかに、巻頭に木版極彩色の口絵を使用するようになり、口絵全盛時代を迎えたが、初め小説の一場面を描いたのから、それらに全く関係なく挿入される口絵も現れるようになった。


ホトトギス』の発刊の頃は、挿絵史においても、新風の起った注目すべき時期に当たっている。それはテキストに関わりなく、純粋に絵としての面白さを目的とする挿絵絵画が用いられるようになったことで、これをコマ絵とか草画と称し、やがてここから漫画やカットが生いたつことになる。コマ絵とは印刷面の小間をうめる自由画、草画は即興的な略筆画の意であるが、明治後半期は、コマ絵全盛期といってよく、『ホトトギス』の目次にある絵画或は挿絵というのも、このコマ絵のことである。そうして、この新様式の出現は、いま一つの新風を挿絵史にもたらしている。


 それは従来の板下や口絵の画家が、浮世絵師か日本画家であったのに対して、新しいコマ絵の執筆者が、主として、洋画系の人々であったということである。かれらのスケッチや筆のすさびを、そのまま解放したようなコマ絵ないし草画の形で、洋画は、ジャーナリズムに迎えられ、また、青年子女に新しい趣味を鼓吹することになった。」(匠秀男『日本の近代美術と文学』沖積舎、平成16年)