純文学作家の新聞小説には挿絵がない

当時の代表的な文人饗庭篁村は幕末期の読本作者と異なるプライドを示すためか、その小説に挿絵を伴うのをきらい、『余や不肖といへども事に操觚に従ひ、自ら計らざる嗤ありといへども聊文学者を以って自任す。されど文字を連ねて感動せしむる能わずといえども、挿絵の偉力によりて了解せしめんとならば、余は今日より文壇を退いて、亦終生文字を作らざるべし』(『文芸倶楽部』第一巻第一編)といっているが、その幕末以来の板下絵師と同席するのを嫌う態度の中にも、板下絵師=挿絵家の位置が知れるであろう。」
と、新しい時代の作者も挿絵家(板下絵師)との共労を嫌っていた。


尾崎紅葉は、「小説に挿絵を入れると云うのは分からない話で、何も画の力を借りる程なら、筆を以ってそれだけの事をやって見せるのが、われわれ小説家の伎倆だ」(明治32年2月)と、自尊心を高く鼓舞した。


それまでは新聞の通俗時代小説には、浮世絵系の挿絵画家による大きな木版挿絵が紙面を飾っていたのに対して、純文学作家による新聞小説の場合は挿絵なしか、カットだけであった。


たとえば夏目漱石の小説記者としての第一作「虞美人草」(東京朝日新聞明治40年6月23日〜10月28日)には、社内の専属画家名取春仙による一段角ぐらいのカットしか付いていない。同時に掲載されていた半井桃水作「天狗廻状」の木版挿絵(右田年英画、無署名)は、二段半のヨコ長が多く、タテ長だと四段のものもあった。


漱石の大三作「三四郎」(明治41年9月1日〜12月29日)になると、本文中に内容と関連のあるコマ絵風の挿絵、または挿絵風のコマ絵が置かれるようになり、漱石の死で未完に終った「明暗」(大正5年5月26日〜12月14日では、春仙の挿絵は平均して初期の二倍ほどの大きさになっていた。