明治中期ころは挿絵界に洋画家がいないどころではない。洋画そのものが日本に上陸するには国粋主義者などの抵抗勢力によって弾圧を受け虐げられ、決して恵まれた状況にはなかった。

その頃の事情は「明治十四、五年までの我画壇は、洋風美術の溌溂たる隆興時代であった。之がため従来の日本画はその勢力下に隠蔽されてしまひ、彼の橋本雅邦や荒木寛畝、川端玉章、奥原晴湖女史なども一時は洋画に心を走らせた位であつた。ところが、この期の急激な西欧文物の奔入に反対して台頭した国粋保存論が、有力な弾圧を洋画の上にまで加えて来た。洋画をやる者は国賊なりとまで言はれ、この反動思想が政府に喰ひ入つて、折角、工部大学内に設けられた美術学校も明治十六年に閉鎖され、東京府の絵画共進会の出品規則には洋式の絵画及び其同趣を帯びたる絵画は出品することを得ずなどの一項が挿入されるやうな事に至つた。」(小山正太郎先生、不同舎旧友会出版)と、記されている。


これにフェノロサの日本美術の賞讃による理論的反動の気運が続いている。勿論これに対して、明治二十二年の明治美術会の設立などにいたつているけれども、日清戦争を経てようやく反動期の終るまでは、わが国洋画は、わが国浪漫主義文学と同じく、反動期の下に苦しまねばならなかった。