「太陽」口絵、洋画家では黒田清輝ひとりが頑張る

【さし絵探索2014.5.30】
毎月、事務所にある書籍を100冊以上処分することにしており、昨日も150冊ほどを8束にしてリサイクルに出した。が、30分後にはそれ等が全てなくなっていた。自転車では運べる量ではないので、車で来て持っていったのだろうか? 
 ともあれ順調に処分は進んでいるが、捨てられない本もある。
 今回は「太陽」(博文館、明治29年11月)数冊と「太陽」3冊を合本したもの、そして「画法自在」(『日曜百科全書』、博文館、明治31年)などを自宅に持ち帰ってきた。

「太陽」第2巻第23号(博文館、明治29年11月)



「画法自在」(『日曜百科全書』、博文館、明治31年


 先日の講演会「洋画家たちのさし絵史」で「ホトトギス」(明治30年創刊)や「明星」(明治33年創刊)に洋画家が描いたさし絵について述べたが、「太陽」明治28年創刊)にまで手が回らず気になっていた。


 「太陽」第2巻第23号(明治29年11月)の表紙に「本號には現時畫界の鉅匠十七家の手に成れる逸品を掲ぐ眞に美術の大観。」とあるのを見つけ、まさに探していたテーマにピッタリの資料が出て来て感激。巻頭口絵17点のうち洋画家が描いたのはかろうじて黒田清輝「逍遥図」1点があるだけで、まさに日本画家によるさし絵全盛時代を象徴していた。

黒田清輝:画「逍遥図」(「太陽」第2巻第23号(明治29年11月)



審査委員・橋本雅邦筆「虎渓三笑図」(「太陽」第2巻第23号口絵、博文館、明治29年11月)



大出東皐筆「風雨牡丹図」銀牌(「太陽」第2巻第23号口絵、博文館、明治29年11月)



審査委員・川端玉章筆「山水図」(「太陽」第2巻第23号口絵、博文館、明治29年11月)



下村観山筆「佛誕図」銀牌(「太陽」第2巻第23号口絵、博文館、明治29年11月)



小堀鞆音筆「經政詣厳島祠図」銅牌(「太陽」第2巻第23号口絵、博文館、明治29年11月)



寺崎広業筆「悉達語天使図」銀牌(「太陽」第2巻第23号口絵、博文館、明治29年11月)



◆官営展覧会の絵画共進会は洋画家の出品不許可
「太陽」第2巻第23号(博文館、明治29年11月)263頁に、青二齋「絵の褒貶」と題して「日本絵画協会の第一回絵画共進会に於ける、出品絵画は左の如し」とあり、700名の出品者から選出された受賞者300名の一部36名を紹介している。
 審査長は岡倉覚三(天心)、審査委員は川端玉章、山名貫義、橋本雅邦。巻頭口絵はこの第一回絵画共進会の受賞者の中から選んだ数点が掲載されているようだが、黒田清輝は、受賞者名簿の中には見当たらないが、なぜ黒田清輝が共進会の受賞者に混じって記載されているのだろうか?


 内国絵画共進会とは、1882年(明治15)と84年に農商務省が主催した官営の展覧会で、洋画の出品は許されなかった。維新とそれに続く文明開化の風潮は,日本固有の美術を衰微させたが,やがて反省が起こり伝統保存の機運が高まった。端緒になったのは1877年に開催された内国勧業博覧会の成功と79年に創立した竜池会(古美術の鑑賞と調査のため,佐野常民らによって組織された)の運動。東京大学に招聘(しようへい)されたアメリカ人フェノロサが竜池会で講演し,洋画を排して日本画を尊重すべきことを説いたことが,その機運をいちじるしく助長した。
 官営の展覧会でありながら、ここにははっきりと洋画が排除され、日本画だけの展覧会であることが記されている。


◆「画法自在」は寺崎広業:画、巻頭木版画口絵がある日本画入門書である。ここにも洋画家たちの苦難とは裏腹に日本画家たちの謳歌ぶりを伺うことが出来る。

寺崎広業:画、巻頭カラー口絵多色刷り木版画(「画法自在」『日曜百科全書』、博文館、明治31年



野口親子筆、「画法自在」挿絵(『日曜百科全書』、博文館、明治31年



野口親子筆、「画法自在」挿絵(『日曜百科全書』、博文館、明治31年