藤島武二にいち早く西欧の資料を見せたのは誰か? という疑問は、藤島自らの言葉で解決することができたようだが……。多少の疑問も残る。

「私が本当に洋画を研究したのは、美術学校助教授に就職してからである。教務を為すの傍ら、黒田君の懇切なる薫陶を受けた。特に同君が友人の態度を以て親切に指導して呉れた雅量に感謝してゐる。久米君も亦直接、間接に技術上有益な忠告と助言とを与へられた。」(『美術新報』第十巻九号)
と、記している。


1896(明治29)年、西園寺公望が文部大臣になり東京美術学校に西洋学科が新設され、白馬会を組織した黒田清輝と久米圭一郎(1866~1934年)が教授(最初は講師)に任命された。この時黒田は、三重県津市の県立尋常中学校の助教諭であった藤島を東京美術学校助教授(最初は助手として)として推挙し、教務の合間を縫って指導した。アール・ヌーボーなどの資料も1900(明治33)年パリ博に油絵を出品し訪欧し、1901(明治34)年5月に帰国した黒田と久米の二人によって持ち帰られたものを、見たということか。


藤島は、1895(明治28)年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に100号の「御裳濯川」を出品。同博覧会には黒田清輝が「朝妝」を出品し、裸体画論議が沸き起こる。


黒田は藤島との交友について「藤島君は日本の洋画の中で、一番古く私の知ってゐる人です。それは、私の仏蘭西に居た自分に、藤島君が手紙をよこしたことがあった。それで私は帰る前から手紙で知り合いになって居た。……帰ってから何処かで遇ったことがあつたが、それは覚えて居ない。其後廿八九年頃私が頻りに京都へ往復した頃に、藤島君が三重県の中学校に教師をして居たのを訪ねたことがあつた。廿九年に美術学校に新たに洋画科が設けらるるに就いて、内命を受けた時に、助教授が要るので、私の知っている人の内では、藤島君が、一番洋画が巧かったから、三重の中学から転任してもらった。」(『美術新報』第10巻9号)と、1896(明治29)年、東京美術学校洋画家の助教授として迎え入れ、鹿児島出身の同郷人というよしみもある押しかけ女房のような藤島を、黒田は快く受け入れ、絵画の手ほどきをした。再び上京した藤島にとっては、この時からが新たな洋画修業の始まりとなる。



藤島武二:画、「桜狩」1893(明治26)年、明治美術会第5回展出品。雑誌「めざまし草」で鷗外に称賛され、安田善次郎に買い取られた。初めて売れた藤島の絵であるが、関東大震災で焼失。
この頃の藤島は窮乏生活を強いられており、この絵を完成させるのが精一杯で額縁をつける経済的な余裕もなく、明治美術会に所属する生巧館画塾の師・山本芳翠の口利きでやっと額縁をつけることが出来たという。


藤島が津市の中学校へ赴任した1893(明治26)年、7月にラファエル・コランに学んで印象派を我が国に伝えた黒田清輝は、古風な画法を固守する明治美術会の画家達に大きな衝撃を与えた。地方の中学校の図画の先生である藤島と洋行帰りで世界の最先端の美術を身につけて帰国した黒田の関係は、「その前から黒田君とは手紙の交換で知遇を得ていたし、留守宅に行って向うから送ってきた絵もしばしば見せてもらっていたので、作品にも非常に感服していた様な次第で、大いに教えを受けようと思っていた。」(「思い出」)と。1866年8月9日(慶応2年6月29日) 生まれの黒田と、1867(慶応3)年9月18日生まれの藤島の年齢はわずかに一つ違いの黒田への複雑な思いはあったであろうが、藤島はひたすら黒田から教えを受けていた。


そして、1896(明治29)年藤島は、黒田清輝を中心とする白馬会の結成に参加し、白馬会第一回展には「春の小川」と題する水彩画や「四条河原の夏」「稲こぎ」など10点を出品。翌1897(明治30)年の第二回展には「逍遥」「池畔納涼」「肖像」「雨後暮色」「読書」を、1898(明治31)年第3回展には「浜辺の朝」「池畔」「貝拾い」「浜辺の春雨」など8点の油絵を出品し、黒田清輝やラファエル・コランの影響を色濃く反映した絵を発表し、旺盛な吸収力と急激な進歩を見せた。



藤島武二:画、「春の小川」水彩画、1896(明治29)年



藤島武二:画、「逍遥」、1898(明治31)年



藤島武二:画、「池畔納涼」1897(明治30)年頃



1899(明治32)年第4回展に出品した「夕空」「雨」「花」、1900(明治33)年第五回展出品作「浴後」「菜の花」などは、上田敏与謝野晶子の称賛を得る。残念ながら、今日これらの作品はほとんど見ることは出来ない。