洋画家による画文一体の挿絵の萌芽と壁

「明治十八年初刊の逍遥の『当世書生気質』には、はじめ洋画家長原孝太郎(止水)が挿絵をし、画文一体の文明開化方式を期したのであるが、のちに挿絵の名家の定評を得た孝太郎の挿絵は当時不評判で、わずか二枚で中止させられている。


逍遥の回想によると晩青社からシリーズで発売された『当世書生気質』の四号までの挿絵を見た長原孝太郎が逍遥を訪ねて、「あれだではいかん。もっと新しいものでなくてはいかん、私にかかせてください。」(土方定一『近代日本の画家たち』美術出版社、昭和34年)というので逍遥は何よりだと思って喜んで頼んだが長原の挿絵は新しすぎて、浮世絵でないと世間うけがせず、残念であったけれども、二回(五号と八号)だけで中止して貰ったという。
挿絵は1、2、3号が国峰、4号が葛飾、5号8号長原、9号が国峰、あとは全て竹内桂舟。



当世書生気質」(晩青堂、明治18年



国峰:画、「当世書生気質」口絵(晩青堂、明治18年



長原孝太郎(止水):画、(「当世書生気質」晩青堂、明治18年



著者の坪内逍遙が自ら描いた挿絵指定画



長原孝太郎(止水):画、(「当世書生気質」晩青堂、明治18年


それが、三十年代になると、洋画家の挿絵が新鮮感をもって迎えられるようになっているのである。正岡子規の随筆『松羅玉液』(明治二九年)に『小説雑誌の挿絵として西洋画を取るに至りしは喜ぶべき事なり、其の喜ぶべき所似多かれど、第一、目先の変わりて珍しきこと、第二、世人が稍々西洋画の長所を見とめ得たること、第三、学問見識無く高雅なる趣味を解せざる浮世絵師の徒が圧せられて、比較的に学問見識あり高雅なる趣味を解したる洋画家が伸びんとすること、第四、従来の画師が殆ど皆ある模型に束縛せられ模型外の中は之を画く能はざりしに反し如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行すること、第五、日本画が好敵手を得たる等を其主なるものとす」、とあるが、さきに『書生気質』に近代的光線を採り入れた挿絵で拒絶された長原孝太郎は、明治三三年には、新雑誌『明星』の挿絵家として華々しく迎えられている。


これ以後、明治末年に至るほど挿絵家として洋画家の活躍が目立つようになるのであるが、材を新聞、雑誌、単行本、小説類における挿絵の変遷に限っても、「明治美術史」を編む事が可能であり、それほどに、当代の美術は文学と密接していたことをあらためてしらされるのである。」(『日本の近代美術と文学』)