非水が手がけた最初の装丁は?

非水は夏目漱石「坊ちゃん」で知られる松山中学を卒業後、1897年に上京し、父の友人である医師・岩井禎三野家に寄宿し、岩井の患者であった西洋木版画家・合田清の紹介で川端玉章の天真画塾に入門した。同年の9月、東京美術学校日本画家選科を受験し役7倍の難関を突破して入学する。


東京美術学校の教授でもあり、新帰朝の合田清が赤坂溜池に開いた西洋木版画教習所・成巧館を尋ねた時に黒田清輝に紹介される。成巧館の二階に黒田清輝が主宰する白馬会研究所が開設され、合田に会いに行った非水がたまたま黒田と出会うことになったのである。


この偶然の出会いが、その後の非水の運命を大きく変えることになる。


日本画家選科の学生だった非水は、黒田に気に入られ平河町達磨坂上の黒田家にたびたび招かれ、フランス語と洋画を学ぶことになり、そのかわり、黒田家の親戚の娘に日本画を指導する事になる。


こうして黒岳に出入りすることになった非水は、久米桂一郎、岡田三郎助、藤島武二や長原孝太郎、和田英作等と知り合いになる。この白馬会のメンバー達との出会いにより、非水は日本画から近代洋画洋画の世界へと目を開かれる。


1901(明治34)年東京美術学校を卒業。この年、1900年パリ万国博覧会や絵画教授法、美術制度の研究に仏国に派遣され、世紀末ヨーロッパの美術事情を視察した黒田が、パリ万博のポスター、パンフレット、チラシなど世紀末美術沢山携えて帰国した。


黒田の持ち帰ったパリ博覧会関連の資料や世紀末装飾美術の資料、とりわけアール・ヌーボー様式のポスターなどは、非水を魅了し大きな影響を与え、日本画から装飾図案への道を歩ませることになる。


非水はその頃のことを『自伝六十年』に「博覧会の建築から其の装飾、家具、装身具、印刷図案に到るまで盡く〈アール・ヌーボー式〉に非るなしであった。其の時代にはまだ今日の如く商業美術の発達していなかった時であったので、商業美術として〈アール・ヌーボー〉の位相は確立されてゐなかったのであるが、それでも〈ムッカ〉(MUCHA)の作品として、有名な〈サラ・ベルナール〉の芝居のアフィッシュなどは〈アール・ヌーボー式〉としての広告画が出現したわけである。……私が日本画科を出て、先生から洋画に対する多くの知識を与えられたのであったが、断然図案の方面に進出して行こうと云ふ心の動いたのは、黒田先生のこのお土産品の到来が最大の動因であったことは事実なのである。それからは毎日のやうに先生の邸に遊びに行って、到来のこれ等の作品を観賞したり模写さして貰ったりしていた」と記している。


非水は1901年から中澤弘光と共に黒田家に寄寓するようになる。この年に与謝野晶子『みだれ髪』が藤島武二アールヌーボー調の装丁で出版された。非水と中澤弘光は晶子の歌に絵を付けて「みだれ髪歌カルタ」をつくり、これが1904(明治37)年8月に「明星」の口絵として4点掲載された。中澤、杉浦の二人が刺激を受けてカルタの制作に挑んだのだろうことは、この『みだれ髪』の表紙に使われたモチーフと類似のものが使われていることなどから、容易に推察する事ができる。 



藤島武二:装丁、与謝野晶子『みだれ髪』



・「たまくらに鬢のひとすぢきれし音を小琴と聞きし春の夜の夢」(与謝野晶子『みだれ髪』より 杉浦非水作〈S〉のサイン)



・「うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ」(与謝野晶子『みだれ髪』より 中沢弘光作〈弘〉のサイン)


非水、弘光の二人ともに、藤島武二も表紙で使用した「翅ある童」=キューピットやハート、竪琴、骸骨などの西欧のモチーフをとりいれており、黒田清輝が持ち帰ってきたアールヌーボーの香りをふんだんに漂わせ、西洋を短歌の中に取り入れようとした晶子の作品と連動したカルタとなっている。


1901(明治34)年、非水は黒田家に寄寓中に初めての装丁となる饗庭篁村『単林子撰註(近松研究)』の手がけるなど、しだいに図案家(デザイナー)への道を歩み始める。



杉浦非水:装丁、饗庭篁村『単林子撰註(近松研究)』』(東京専門学校出版部、明治34年)
近松門左衛門は、雅号を単林子ともいうが、林の中に隠された祈りの巣、を漢語で縮めたものという。



杉浦非水:装丁、土井晩翠『暁鐘』(東京堂発行、明治45年2月7日12版)


手元にある『暁鐘』は東京堂発行、明治45年2月7日12版だ。この本の初版は明治34年5月20日に発行されている。ネットで販売されているこの本のデーターを見ると明治34年に発行された『暁鐘』は有千閣/佐養書店から発行。明治37年に発行された『暁鐘』も有千閣/佐養書店だ。明治41年に発行されたときは上田屋書店から発売されている。


なぜ初版の装丁にこだわるのかというと、初版の装丁が11版の装丁と同じものだとすると、定説になっている「非水の最初の装丁本は『巣林子撰註』(東京専門学校出版部、明治34年)」説が崩れるからだ。


「みだれ髪歌かるた」(『明星』明治37年正月号に掲載)の非水のサインは「S」であったが、『暁鐘』のサインは「非」になっている。つまり、杉浦朝武が杉浦非水と名乗るのは明治38年からでそれ以前に「非」というサインを使う事は考えられない。

年月は不明だが、発行所が有千閣/佐養書店から上田屋書店へ、そして東京堂へと変わっていく過程で非水の装丁が採用されたものと思われ、非水が装丁をした『暁鐘』は明治38年以降のものということになり、非水が最初に手がけた装丁は『単林子撰註』という説は正しかった。