松太郎と専太郎の夢が実現

「……『俺の小説が売れて、お前の画が挿画に使われればいいな』空想の最後はそんな現実に落ちてくる。」(川口松太郎『飯と汁』講談社昭和35年)と、語り合った二人に、20年ほど経過して松太郎が執筆した新聞小説に、専太郎がさし絵を担当するという、二人の夢を実現して発表されたのが「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)だ。
「岩田(*専太郎)の一生からみて、東京日日新聞川口松太郎と組んでの『蛇姫様』の挿絵は、まさにところをえた正念場で、一作一作に張りがあるのも当然である。東京日日新聞は岩田の勤めたところ、川口松太郎は岩田をひきたてプラトン社に入社させたり、因縁浅からぬものがあった。苦労人の川口は、挿絵画家の苦労を思いやり、早目に連載の十回分を届けたという。岩田は『蛇姫様』の挿絵にじゅうぶん結構をねっては、流れるような華麗な作をうみだしていったのであろう。」(「情念のデザイン」)と、松太郎の思いやりとそれに応えようと努力する専太郎との息の合ったコンビの良さが素晴らしい絵を作り上げた、と指摘している。
山田宗睦は東京日日新聞に掲載された「蛇姫様」を見て「挿絵は岩田専太郎。華麗な作風は、その後その華麗さによってときに嫌うこともあったけれど『蛇姫様』の挿絵は、たぶん専太郎一代の挿絵史の中でももっとも艶麗であった。流れるような描線の艶冶さと、構図の卓抜なクローズ・アップ方式で、浮世絵を近代に再生させた傑作と言っていい。」(山田宗睦「情念のデザイン」、『名作挿絵全集』第9巻、平凡社、1981年)と絶賛した。



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)



「蛇姫様」(東京日日・大阪毎日新聞、昭和14〜15年)