『現代大衆文学全集』第7巻「小酒井不木集」の挿絵

挿絵画家・竹中英太郎が上京したのは1924(大正13)年18歳のときである。以後、「人と人」「家の光」「クラク」などに描いた挿絵が高く評価され、上京以来知遇を受け近所に住んでいる橋本憲三が企画立案した平凡社『現代大衆文学全集』「小酒井不木集」(昭和3年)の挿絵の依頼を受けることにつながる。
 英太郎は『現代大衆文学全集』の
・第7巻「小酒井不木集」(昭和3年)で「猫と村正」「メデューサの首」「死の接吻」「直接証拠」「三つの痣」「人口心臓」の計6篇に7点、
・第35巻「新進作家集」(昭和3年)では「新進作家集・城昌幸集」に2点を、
・第25巻「伊藤青々園集」(昭和4年)で「仮名屋小梅」に13点を担当、
総数22点を描いた。



竹中英太郎:挿絵「メデューサの首」、「現代大衆文学全集第7巻 小酒井不木集」(平凡社昭和3年



竹中英太郎:挿絵「三つの痣」、「現代大衆文学全集第7巻 小酒井不木集」(平凡社昭和3年



竹中英太郎:挿絵「死の接吻」、「現代大衆文学全集第7巻 小酒井不木集」(平凡社昭和3年



竹中英太郎:挿絵「人口心臓1」、「現代大衆文学全集第7巻 小酒井不木集」(平凡社昭和3年



竹中英太郎:挿絵「人口心臓2」、「現代大衆文学全集第7巻 小酒井不木集」(平凡社昭和3年



竹中英太郎:挿絵「直接証拠」、「現代大衆文学全集第7巻 小酒井不木集」(平凡社昭和3年



竹中英太郎:挿絵「猫と村正」、「現代大衆文学全集第7巻 小酒井不木集」(平凡社昭和3年


「苦楽」(当時はすでに「クラク」と改題)の編集部から専属にならないか、という話があり、『現代大衆文学全集』の画料が入ったら九州に住む家族を東京に迎えようと考えていた英太郎は、受取った画料を懐に意気揚々と帰郷した。
 しかし、東京に戻ってみるとメインバンクの倒産に伴い資金繰りに窮したプラトン社は雑誌に使う紙を差し押さえられ一九二八(昭和三)年五月に「苦楽」は廃刊、倒産寸前だった。長男・労が生まれたばかりであるというのに収入面での大きな支えを失い、月給百〜百五十円という莫大な金額の専属画家料の契約を元手に、母や家族を東京に呼び寄せる約束をした英太郎は途方にくれた。