専太郎は、三上於菟吉『日輪』(大阪毎日新聞、1926年1月)で初めて新聞小説の挿絵を描く。専太郎は、自らが楽しんでいるかのように、次々に新しいタッチの画風を展開してみせる。

そんな専太郎を川口松太郎は「多忙になると長い時間をかけて仕事をすることが出来ず、岩田式定型に安住して作風が硬化して行くのも已むを得なかった。そんな時に『絵がマンネリになりかけているぞ』と警告するのも私で、彼も素直に頷き『少し忙しすぎたんだ、気をつけて描くよ』といった。そういう点でも作画に対する批判はよく聞いて悪評にも反抗せず、彼が最も嫌うのは定型化で、更に新しい形式を模索する。そこに彼の進歩があり長い名声を持続させる素地があったのだ。」(「極端に悪い奴」)と、記している





岩田専太郎:画、三上於菟吉「日輪」(大阪毎日新聞、大正15年)