石井鶴三、小田富彌、岩田専太郎が、時代小説挿絵のパイオニア

尾崎秀樹は「新聞小説が今日見られる様な形態をととのえる第一の時期は、大正四年十月大毎大朝が夕刊発行にふみきり、新聞の連載物が多彩となった時からである。第二の整備期はいうまでもなく震災後、発行部数百万を突破してたときだ。この変遷過程は『毎日新聞七十年史』の「連載よみもの」を通読するとよくわかる。


(*明治)二十年代は、年恒、国峯、川上恒茂で、三十年代に入ると、阪田耕雪、多田北嶺、四十年代はさらに山本英春、。大正期に英朋、清方と続き夕刊発行を境に北嶺は講談もの専門になって、伊東深水川端龍子、審也、英朋、清方が現代物をあつかうようにかわってゆく。そのかわり目をさしえなしの鴎外の史伝ものがおさえているものの興味が深い。


『時代小説と挿絵』で対象となる部分はむしろこれ以後ということになろうか。それまでの時代物は、宇田川文海などの戯作調か燕林、貞山、伯知などの講談、あるいは円朝などの人情噺にはじまり、大倉桃郎、塚原渋柿園、細川風谷とつづく稗史小説にすぎず、毎日新聞で時代小説らしい時代小説をのせだしたのは『都新聞』におくれること約十年、ふたたび『大菩薩峠』を今後は石井鶴三の挿絵で連載しだしたときにはじまる。(鶴三にはそれ以前に上司小剣の「東京」の新聞挿絵がある。)大正十四年正月のことだ。この「大菩薩峠」の開始は、それまで一人ふみとどまっていた多田北嶺の仕事に終止符をうち、連載講談にとどめをさすことになった。



挿絵:石井鶴三「大菩薩峠」(毎日新聞大正14年


続いて岩田専太郎が『鳴門秘帖』のさしえを描いて登場する。朝日は『照る日くもる日』で小田富彌を使った。」(尾崎秀樹『大衆文学論』勁草書房、1965年)



挿絵:小田富彌『照る日くもる日』(大阪朝日新聞、大正15年8月)