昨日、新宿区の開架式図書館へ行って、本を読んでいたら、たまたま座った席の脇の棚に、村上護『四谷花園アパート』(講談社、昭和53年)という気になるタイトルの本があったので、パラパラとめくって見た。なぜ気になったのかというと、私の事務所の最寄りのバス停が新宿花園だから、という単純な動機でしかない。読み始めたら、何と青山二郎の「青山学院」があったのが、この「四谷花園アパート」らしいということが分り、中原中也も一時住んでいて、小林秀雄らが出入りしていたという。この「青山学院」の話のことは、うすうすは知っていたが、


それまでは青山二郎の装丁にはあまり興味がなかったが、急に身近に感じてきたので、早速、「四谷花園アパート」があったらしい、花園東公園へ足を運んで見た。どこかに「四谷花園アパート跡」等の石碑でもないかと思って探して見たが、そんな案内表示さえも見つからなかった。新宿区か東京都辺りが、もう少し力を入れて、せめてバス停の名や公園の名を「四谷花園アパート跡公園」とか、どこかの城趾公園のような名前にしてくれないものだろうか。「四谷花園アパート跡公園」の近くに事務所があるというだけで何のかかわり合いもないのだが、何だか嬉しくなって、青山二郎の装丁にも興味が湧いてきた



村上護『四谷花園アパート』(講談社、昭和53年)



四谷花園アパートがあったと思われる花園東公園は、当時の遊廓があったといわれる新宿2丁目までは徒歩で3〜4分くらいで、今もオカマ街として昔の名残を伝えている。



いまは、昔の面影などまったくなく、四方を高いビルに囲まれたところに、ひっそりとしたたたずまいを見せている花園東公園


二郎の兄の青山民吉は東大美学出身の学識者で、どうやらこの兄の影響が強かったらしく、二郎の交友関係に画家、彫刻家、美術評論家が多いのも、この兄を通じて知り合ったようだ。青山二郎は兄の紹介で中川一政について絵を習ったことがあるようで、金が入用になって絵を売ろうとしたのだが、文士仲間はあまり伎倆を認めず二郎の絵を購入したのは福田恆存だけだったという。骨董の方はかなりの目利きのようだが、こと装丁に関しては、高名な著者の本をたくさん装丁はしているものの、私は絵と同様にあまり高い評価をしていない。


青山二郎が新宿花園に引っ越してきたのは、当時大学出の初任給が五十円のころに、母・きんから五百円もの小遣いをもらっていたらしく、その母が亡くなり、金づるがなくなったからではないかと村上護は推察している。引っ越し先の住所は、四谷花園町95のアパート。中原中也が差出人の手紙には「東京市四谷區花園町花園アパート」とあった。




「新東京案内精図」昭和22年





写真は四谷花園アパートに集った面々。3点とも村上護『四谷花園アパート』(講談社、昭和53年)より転載


集まった面々の傍若無人ぶりは、『四谷花園アパート』を読んでいただきたい。特に小林秀雄中原中也の想像外の行動には驚かされた。