青山二郎と創元社東京支社との関係について

昭和11年創元社東京支店の最初の一冊として刊行されたのが、北条民雄の『いのちの初夜』。この本は、北条民雄が20歳の時にハンセン病を発病、入院後に創作を開始し、1936年『改造』(1936年2月号)に発表、第2回の文學界賞を受賞した短編小説。小林秀雄の尽力により創元社がその版権を手に入れることができたが、小林秀雄はすでに昭和9年ごろから創元社東京支店長・小林茂の相談役になっていた。


続いて12月14日、小林秀雄訳『精神と情熱とに関する八十一章』が刊行され、これをきっかけに小林秀雄創元社顧問となって、週一日出社するようになる。この『精神と情熱とに関する八十一章』の装幀を青山が担当することになり、創元社とのつきあいが始まった。そのころのことを青山は、


創元社が土橋の裏の、小さなビルの二階にあった。三坪ばかりの部屋で、三人か四人でやっていた。小林の訳したアランの『精神と情熱との八十一章』の装幀を頼まれたのが、創元社と知合いになった最初である。岡村政司一人が編輯員だった。年末になって、私は借金を申込んだ。クリスマスだったから、支店長の小林茂と岡村政司を誘って、二三軒飲んで歩いた。借金をして、その金でおごって飲んだのが、小林茂には何とも理解の出来ない事らしかった。我々は誰それにおごろうと思って、借金しておごった事はない。クリスマスに一人で歩くのは馬鹿気ているから誘ったまでである。……創元社が四谷に越すと、社員も二三十人に増えた。創元社は私に月給を呉れる様になった。」(青山二郎「銀座酔漢図絵」)と、記している。


青山二郎創元社に頻繁に通うようになるのは、東京支社が四谷区愛住町に移転した昭和12年10月1日以降からと思われる。四谷愛住町の事務所は、当時青山二郎が住んでいた花園アパートからは歩いて十分足らずのところにあった。
四谷愛住町移転後の昭和13年小林秀雄を中心に創元選書が企画され、12月10日にその第一弾として柳田國男の『昔話と文学』他三冊が刊行され、大成功を収める。この装幀も青山二郎が受け持った。



柳田國男『昔話と文学』(創元社昭和13年12月)
これは、かなり考えたものと思え、自分を押さえて、選書の装丁としては見事な装丁になっている。「多ジャンルのものを入れる叢書だから、どの著者が着ても違和感の少ないものをと、青山にしては珍しく苦労し、一年近くを費やしたといわれる。平に置いた場合、本棚に立て並べた場合と、青山の事だから様々に想定して結局は無難なものに落ち着かせるが、これが創元社のひとつの顏になったのである。以降の創元社の本は、青山の装幀一色となり、小林秀雄などど共に編集顧問に収まり、月給を貰う時期もあった。」( のり「死ぬまで装幀家だった人」、『別冊太陽 青山二郎の眼』平凡社、1994年)と、評判が良かったようだ。