与謝野晶子『みだれ髪』(東京新詩社、明治34年8月)には、藤島武二が描いた7葉の挿絵が挿入されている。目次には著者である晶子の目次よりも先に、藤島の挿絵の目次の頁があるが、これは晶子が、西欧の知識も豊かな画家・藤島をいかに尊敬しているかという証とも解釈できる。つまり、『みだれ髪』は与謝野晶子の句集というよりは、晶子と藤島との共同作業による画文集ということを考えていたのではないだろうか。


これは、複製絵画としての挿絵を単に文章を解説する絵ではなく、画家の一つの表現としての絵として認めていることといえる。藤島自身も、晶子の句の説明を越えた、文学と美術の共闘という視点に立った独自の解釈と表現を意識して描いているように思える。



藤島武二:画「恋愛」(『みだれ髪』)
最初に掲載された挿絵は、目隠しをしたクピド(キューピッド)。「恋は盲目」というようなことを表現しようとしたのだろうか。あるいは最初の句「臙脂紫」
 夜の帳(ちやう)にささめき盡きし星の今を下界の人の髪のほつれよ
の「夜の帳にささめき盡きし星」が、盲目の恋の矢を放つクピドになって下界に降りてきたところなのか。優しげな少年のイメージとはかけ離れた激しい意味が込められているものと推察する。


「クピド」は絵としても俳句の言葉としてもそれまでにはない新しいもので、西欧から入ってきたばかりの絵と言葉で、新しい時代の幕開けをアピールするにはぴったりの絵であり、最初に登場させるには最適の選択といえるだろう。


この絵の解釈に関しては、木股知史『画文共鳴』(岩波書店、2008年)に詳しいので、耳を傾けて見よう。
「〈恋愛〉は愛の矢をつがえた目隠ししたクピドを描いているが、……ローマ神話では、クピドは欲望や愛の意味を示し、一般的には軍神マーキュリーとヴィーナスの間にできた子とされている。最初は美しい少年として画像化されたが、弓と矢を持ち、肩には小さな翼をつけた童子として描かれるようになった。たとえば、目隠ししたクピドの例はボッティチェルリの〈春〉に見られる。クピドが目隠しをした少年として描かれるようになったのは一四世紀以降のことで『時も場も選ばぬ恋の矢に射られた者は。人目も掟も選ばぬ恋の虜となるという愛の盲目性を示すものである』という。クピドの挿画は。表紙画と関連している。運命としての恋愛というイメージを神話的に表現していると感じられたために、長原止水や一條成美もクピドの像を好んで描いたように思われる。」


三六判という判型の選択も、この挿絵が影響しているのではないかとする木股氏の主張にも耳を傾けてみよう。
木版画はサイズを変更できないので、本の大きさと挿画の大きさが合わない場合は……『鉄幹子』のように折込みという手段をとるほかない。だから、藤島の縦長の画面の挿画が、三六判という判型を選ぶ実際的な根拠となったと考えられるのではないだろうか。ただし縦長の三六変形版という判型を選択したあとで、版画を作成したとも考えられるので、断定は出来ない。」(前掲書)
と、自信なさげだが、視点としては斬新で面白い。


さらに、三六判の当時の盛行について、西野嘉章氏の文章を引用し紹介しているので、掲載させてもらおう。
「明治三四年(1901)頃から三六判という特異な版型(まま)の仮綴じ表紙にアールヌーボー風の斬新な意匠を多色石版画で刷り上げた美しい新体詩歌集がいくつも生まれ出る。先駆けは明治三四年に出た河井酔茗(1874~1965)の『無弦弓』(*1)。これは一條成美の挿画が美しい。続いて藤島の装釘で一時代を画した昌子の『みだれ髪』(明治34年)。明治三七年の『小扇』もやはり藤島の手になり、これは扇の意匠を刷り込んだ薄紙のカバーが斬新である。その他、ベタ黒の地に銀ネズ抜きの標題がモダンな服部躬治の『迦具土』(明治三四年)(*2)、〈みずほのや〉こと太田水穂(1876~1955)の『つゆ草』(明治三五年)、金子薫園(1876~1951)の『片われ月』(明治三四年)と『小詩園』(明治三八年)、平木白星の『新体詩撰七つ星』(明治三七年)などが続く。」
とあり、三六判は『みだれ髪』が最初に採用したわけではないようだ。
(*1)河井酔茗幸三郎『無弦弓』(内外出版協会、明治34年1月)
(*2)服部躬治『迦具土』(白鳩社、明治34年7月)



藤島武二:画「現代の小説」(『みだれ髪』)



藤島武二:画「恋愛」(『みだれ髪』)