白樺装は難しい。そんな白樺装丁失敗談を書いた熊谷武至「装幀を變更した歌集」を紹介しよう。

書物展望社横光利一の『雅歌』を白樺の装幀で出版してから時日もたつた。その時、材料の白樺は初冬わざわざ信州へ人を派して伐り取らしたと傳へられ、岩本氏も雑誌『書物展望』の編集後記で『何しろ始めての試み故、製本所でも大骨折りで』と云われてゐる。事實世に出た白樺表紙は『雅歌』が最初である。


然し、これ以前、白樺を使用として失敗した例がある。
大正五年の春の雑誌『詩歌』を見ると、近刊の前田夕暮の歌集『深林』の廣告に、『白樺表紙四六判函入歌壇空前の新裝幀』と云ふ文字が見えてゐ、『詩歌』八月號の編輯後記で前田夕暮は“自分の歌集『深林』は愈々九月上旬に發行することになった。今まで随分長い間諸君の期待に背いてゐたので心苦しかったが、今度愈々上梓するといふ心持ちが旺盛になって來たので早速歌稿整理にとりかかった。數日内には印刷所に原稿の三分の二ほどは渡せることになってゐるし、表紙の白樺は今裏うちをしつつある”と語っている。


それが九月号の編輯後記には次の如くなつている。
“ここに自分の大きな失敗である事に就いて諸君にお詫びせなければならぬことがある。それは自分の歌集の白樺表紙のことである。今月愈々製本の準備の為めに製本屋に裏打をさせて試みにボールに貼つてみた處が、自分は一見してすつかり失望して仕舞った。裏打もせずボールに貼らぬ前と後との感じの相違甚だしさに呆然として仕舞つた。


それのみならず、十數ヶ月もそのまましまひ込んであつた為め、今度出してみたら色が半分程赤く変色して仕舞つた。それをボールに貼るとコチコチの板のやういになつて仕舞つたには絶望して仕舞つた。自分はそれから毎日頭を悩ました上でとうとう白樺の表紙は斷然取捨てて新しい他の装幀に變えざるをえなかつた。遂々吾々の新しい裝幀上の試みは一片の夢を遺して幻滅してしまった。……”


となつて、雑誌巻尾の廣告文は『著者装幀四六判函入歌壇空前の新装幀』と變つてゐる。……これを見ると、『雅歌』の白樺表紙の出現は喜ばなければならないことである。」