これが日本初の水彩画指導書・大下藤次郎『水彩画之栞』

大下藤次郎(おおした とうじろう、1870 -1911年)は、1891〔明治24〕年、中丸精十郎に学び、翌年頃から三宅克己との交友があり、水彩画へと傾斜していく。1893年明治美術会会員となり,水彩画を研究。1896〔明治29〕年からは,原田直次郎に師事。この頃から水彩画家として立つことを決心し、2年後(1896〔明治29〕年)にはオーストラリアに写生旅行に出かける。


帰国後に著した日本初の水彩画指導書『水彩画之栞』(新聲社、1901〔明治34〕年)は,3年で15版を重ねるベストセラーとなり一世風靡(ふうび)する。巻頭の凡例に「本書は専ら水彩畫を以て一の娯楽とし遊戯として學はむとする少年諸氏の為めに其手ほときたらむ事を希ふもの、故に其説明は極めて簡易を旨とせり」とあり、初心者にも理解できるように配慮して優しく書かれたものである事がわかる。ほかにも、小林鐘吉『水彩画一班』、三宅克巳『水彩画の手引』等も版を重ね人気を得、水彩画の大ブームを引き起こした。


水彩画の人気ぶりは文学作品にも新しい時代を象徴するキーワードとして登場した。
夏目漱石三四郎』(朝日新聞、1908年(明治41年) 9月-12月)五には「三四郎は挨拶(あいさつ)に窮した。見ると椽側に絵の具箱がある。かきかけた水彩がある。
『絵をお習いですか』
『ええ、好きだからかきます』
『先生はだれですか』
『先生に習うほどじょうずじゃないの』
『ちょっと拝見』
『これ? これまだできていないの』とかきかけを三四郎の方へ出す。なるほど自分のうちの庭がかきかけてある。空と、前の家の柿(かき)の木と、はいり口の萩だけができている。なかにも柿の木ははなはだ赤くできている。『なかなかうまい』と三四郎が絵をながめながら言う。」
「野々宮の家を訪ねると、よし子は縁側で水彩画を描いていた。」
「『美禰子さん?』と聞きながら、柿の木の下にある藁葺屋根に影をつけたが、『少し黒すぎますね』と絵を三四郎の前へ出した。三四郎は今度は正直に、『ええ、少し黒すぎます』と答えた。すると、よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗いながら、『いらっしゃいますわ』とようやく三四郎に返事をした。」
と、女性達が水彩画を描くシーンがたくさん書かれている。
ほかにも「深見さんの水彩は普通の水彩の積(つもり)で見ちゃ不可(いけ)ませんよ。何処迄も深見さんの水彩なんだから。實物を見る氣にならないで、深見さんの氣韻を見る気になつてゐると、中々面白いところが出て來ます。」と、親交のあった浅井忠の水彩画評を登場人物に言わせている。


漱石自身も絵を描くことが好きだったようで、明治37年ころから親しい友人に宛てて送られたた水彩の絵はがきがたくさん残されている。

夏目漱石:画、橋口貢宛てハガキの裏面(明治37年8月1日)




島崎藤村も「水彩画家」を『新小説』(明治37年〔1904年〕1月)に発表した。水彩画家・鷹野伝吉が妻の不貞を発見しつつこれを許すが、別の女と親しくなって妻が苦悩するという藤村の実体験に基づく内容だが、小諸義塾の教師であった関係で親交を結ぶ間柄となった水彩画家・丸山晩霞(1867-1942年)は、『中央公論明治40年(1907年)10月号に「島崎藤村著『水彩画家』の主人公に就て」を発表し、小説の主人公が一面晩霞の私生活の写生であり、世間の誤解を受けることを遺憾として抗議し世間をにぎわした。

渡辺審也:画、島崎藤村「水彩画家」(「新小説」明治37年1月号口絵)


1905〔明治38〕年、藤次郎は水彩画研究団体・春鳥会(現・美術出版社)を創設、同年、その機関紙として水彩画専門誌《みづゑ》を創刊する。1907年には丸山晩霞(ばんか)(1867-1942)らと水彩画講習所、日本水彩画研究所を設立,講習会などもさかんに行ない水彩画の普及啓蒙に大きな役割を果たした。

大下藤次郎『水彩画之栞』(新聲社、1901〔明治34〕年)


大下藤次郎:画「秋の雲」(1904年)、これが水彩画なのか、と思われるほどのすごい表現力だ!