大佛次郎自身も『鞍馬天狗 第十巻』(中央公論社、昭和44年)「あとがき」に鞍馬天狗誕生話をこのようにつづっている。

「『鬼面の老女』は博文館から出ていた雑誌『ポケット』に読み切りの短編として書いた。私がまげ物の小説を書いたのは、これが二度目で、その前はポオの『ウィリアム・ウィルソン』の翻案だったから、二作目のこの方が処女作と言ってもよい。一度だけでやめるつもりだったのを、『鞍馬天狗』として連載してみないかと勧められて、急に『以下次号』ということにした。毎号読切りの形だが主人公はいつも変わらず仕事を続けた。


私はまげ物を書くつもりもなく作家として身を立てる自身もなかった。まったく食うための仕事であった。だから文章にも神経を使わず、だらだら引き伸ばして、ストーリーだって好い加減の思いつきであった。幸か不幸か、その鞍馬天狗に読者が出来て、その後も続けることになった。沼に足を取られたように、ずるずると私は書く人間になって、しまった。


意思も才能もなく始めた仕事で、私は現在でも羞ずかしいと思っている。読むに耐えないと思うし、自分でも読み返したことがない。ただ自分の一生をこれで決めてしまったことを認めなかったら嘘である。いわば、初期の『鞍馬天狗』を集めたこの一冊は、記念的なものなので、途中の気に入らぬ部分を省略して、連載だった体裁を整え、お目にかけることにした。


雑誌の原稿料は、四百字一枚について一円二十銭。単行本の初版は二千部だったが、五百部ずつ版を重ねて、確か三万武ぐらい出た。その頃としては、着実に、長い間続いて売れた本といってよい。私の年齢は二十七歳であった。その翌々年に『大阪毎日新聞』に『照る日曇る日』を連載し、その年、『赤穂浪士』を『東京日々新聞』に書くことになった。


その時代に、二十代の無名の若ものが一流の新聞に小説を書くとは珍しいことで、鞍馬天狗が私を連れ出したのである。私は、まだ物を書く仕事を始めるつもりはなかった。そんな資格はなく、ただ文壇の人たちがやろうとしない、読者を楽しませる小説なら自分にだって『作れる』とおもった。」
と、鞍馬天狗を書いたことが、大佛次郎という作家を作りだしたようだ。


こうして、「大佛次郎関東大震災の焼け野原から、この神話的英雄と連れだって、新しい若々しい新進作家として現れました。」(村上光彦「大佛次郎鞍馬天狗の登場」2008年)