やはり大衆文芸は『富士に立つ影』から


さらに八木昇の説を拝読させていただこう。
「大衆文芸が固有の位置を主張し、万人の等しく認めるところとなったのは、白井喬二の雄篇、『富士に立つ影』(大正十三〜昭二)によってである。大衆文芸の成立は、この作品が登場するに及んで決定的となった。満三ヶ年、一〇六七回「報知新聞」に連載され、悠々と流れる大河の趣きがあった。


挿絵を担当したのが川端龍子木村荘八、河野通勢、山本鼎、の四人で、いずれも新進気鋭の上野出身者(*)である。彼等は交代で挿絵を描いたが、ほどなく山本が抜け、大部分は三人によって描かれた。」(*注:上野出身者とは、帝展や院展などのような上野の森の美術展に出品する画家という意味である。)



挿絵:木村荘八白井喬二『富士に立つ影』(世界社、昭和28年)



挿絵:河野通勢、白井喬二『富士に立つ影』(平凡社昭和3年



挿絵:川端龍子白井喬二『富士に立つ影』(平凡社昭和3年



挿絵:山本鼎白井喬二『富士に立つ影』(平凡社昭和3年


袖珍判の『富士に立つ影』には、新聞連載当時の挿絵がたくさん掲載されている。平凡社刊全6巻と世界社刊全8巻があるが、中身は全く同じもので、世界社の本は平凡社から版権を譲り受け、平凡社で作った紙型から版を作ったものと思われる。
みんな筆をつかって描いているせいか、4人が交代で描いているのに違和感をあまり感じないのは、不思議だ。