八木昇の挿絵黄金時代の定義を「大衆文芸の挿絵」(『芸術生活』芸術生活社、昭和49年)に見てみよう


「大正末年に、新しい読物である『大衆文芸』が興隆して江湖の迎え入れるところとなった。大衆文芸の源流は江戸の庶民文化に求められるが、御承知の通り、江戸文芸=大衆文芸のこの世界は“本文”とそれを助け、あるいは補う“絵”(挿絵)の二要素の融合によって成り立っていた。


本文を味わいつつ挿入された説明絵によって妙味を会得する。あるいは挿絵を楽しみつつ、文字の綾なす興味境に没入する。かように本文と挿絵は持ちつ持たれつの呼吸があい、「大衆的コンビ」の「大きい意味の融合」(白井喬二)が実現した時こそが、本稿の目的たる大正末〜昭和十年代の大衆文芸勃興期なのであった。


大衆文芸作者は、斬新奇抜な虚構の創造に全力を傾注した。滾々と溢れ出る奇想の果てのない魔の描力とは「浄瑠璃節の太夫と三味線」(木村荘八)の如きものである。太夫をして語り易くするは、もとより三味の役割であり、三味線の緩急自在の弾き方こそ太夫の語りを円滑にし、聴衆をして感動せしめるのである。


大衆文芸の父白井喬二は、「作家と挿絵画家」は「野球ならばバッテリーという所であろう」といった。いみじくも白井喬二をはじめとして、大衆文芸の世界には長谷川伸大佛次郎吉川英治……と、いくたの大才を抱いた作家が輩出した。


これに呼応して木村荘八、河野通勢、岩田専太郎、小田富彌……などの破格独断の挿絵画家が現出した。而して名作が登場し、名挿絵が生まれ、名挿絵また名作を醞醸(うんじょう)せしめたのである。」



挿絵:小田富彌、大佛次郎『照る日くもる日』



挿絵:河野通勢、白井喬二『富士に立つ影』




挿絵:木村荘八木村毅『星旗楼秘聞』



挿絵:岩田専太郎吉川英治鳴門秘帖