古河三樹松「『名作挿画全集』のころ」(『名作挿絵全集5』平凡社、1980年)を読んでいたら、「日本挿画院」という私設団体から挿画の全集企画が持ち込まれたという話を知った。しかし、この「日本挿画院」という団体名を見るのは初めてで、ネットで検索してもなにもヒットしない。



「名作挿画全集内容見本」



『名作挿画全集』と付録の「さしゑ」



『名作挿画全集』付録「さしゑ」


『名作挿画全集』刊行の経緯と「日本挿画院」について書かれている数少ない資料である古河三樹松「『名作挿画全集』のころ」から引用をさせてもらおう。
「…改造社の円本全集が出版界の円本ブームに火をつけると、平凡社も『現代大衆文学全集』を企画した。これは下中弥三郎の企画だが、編集長の橋本憲三(筆名相馬健作、高群逸枝の夫)が白井喬二の協力を得て発足したのだった。


 僕も『大西郷全集』全三巻のあと、この編集部に組み入れられたが、この仕事で白井喬二はじめ大衆文学の錚々と、小田富弥、岩田専太郎ら人気挿絵画家に交われたのが、今にして思えば『名作挿画全集」を手がける伏線になったのだろう。


 予想外の好評を博した『現代日本文学全集』は全三十6巻から全六十巻となり、昭和七年まで、まる五年間かかって完結した。『名作挿画全集』の話が出たのは、その後しばらくたった昭和九年の末か十年のはじめだった。


その当時、斉藤五百枝、小田富弥、加藤まさを、細木原青起らを中心に、日本挿画院という私設団体ができていて、小田富弥から僕に挿画の全集を平凡社で出せないだろうか、と話が持ち込まれたわけだ。四谷の待合で挿画院の面々と会った後、社長に話すと『そりゃあ面白い、やろうじゃないか』と即決されて始まったのである。


もちろん挿画院の親分格だった斉藤五百枝や小田富弥を中心に仕事を始めたのだが、このほか本絵の方からは木村荘八、河野通勢、挿絵画家では岩田専太郎、林唯一それに田中比左良が大いに力を貸してくれることになった。


第一巻は十年の六月、鏑木清方岩田専太郎、田中比左良、木村荘八という顔ぶれになった。全十二巻で翌年の夏までかかったが、原則として再録でなく、人気画家の描きおろしで作ることにした。装幀は前に『現代大衆文学全集』を手がけた山六郎に頼み、この人もやがて嶺田弘、渡辺郁子らと日本挿画院に参加する。」
と記されており、日本挿画院のメンバー7名を知ることができた。


古河三樹松が編集を担当した「『名作挿画全集』付録『さしゑ』付き全12巻」に何か記されているかも知れないという期待を込めて、全巻揃えたいのだが、ネットで1冊10,500円もするので手が出ない。そんな折、第3巻付録付が3,500 円で販売されているのを見つけたので、早速注文した。