華宵事件が、結果的には大衆小説の挿絵を導きだし、挿絵の一つのジャンルを確立し成就させる遠因になった。まさに「災い転じて福となす」だ。

その後、昭和12(1937)年には、華宵と講談社は和解し、久々に華宵は『少年倶楽部』に復活した。翌年には赤川武助「源吾旅日記」(『少年倶楽部昭和12年)が一年間連載され、その挿絵を担当した。『幼年倶楽部』にも挿絵を描き始め、互いのわだかまりも消えていった。華宵の筆も、水を得た魚のようにますます冴を見せている。



挿絵:高畠華宵、赤川武助『源吾旅日記』(『少年倶楽部昭和13年



挿絵:高畠華宵、赤川武助『源吾旅日記』(『少年倶楽部昭和13年