先日、伊藤彦造のもう一つの雅号・伊藤新樹はどうして荒木大将にちなんで、この名前にしたのかがわからなかったが、下記の二人が解明してくれました。



挿絵:伊藤彦造『魔粧佛身』


一人は、尾崎秀樹
伊藤彦造への直接インタビューで、「── 昭和十二年に『少年倶楽部』に吉川英治さんの『天平童子』(九月〜昭十四・七)の挿絵を伊藤新樹という筆名で連載してますね。あと『キング』にもおなじ吉川さんの『魔粧仏身』(十一月〜昭十四・五)を手掛けることになる。この「新樹」という雅号は荒木大将に因む者でしょうか。
伊藤 そうそう、語呂は合っているけど字は違う。」(尾崎秀樹『夢をつむぐ』(光村図書、1986年)と、答えており、荒木と新樹は語呂合わせでどちらも「あらき」と読むらしい。


もう一人は、渡辺圭一。
「昭和十二年から十四年にかけて、彦造は、再び講談社の雑誌の仕事に携わった。『少年倶楽部』十二年夏の増刊号に、大和武尊や武将菊池武光らを描いたペン画『日本刀名場面集』を発表し、同年九月号から『少年倶楽部』連載開始の吉川英治『天兵童子』挿絵を執筆した。吉川の指名であったという。挿絵界への復帰にあたって彦造は、吉川英治から贈られたという『新樹』(あらき)の雅号を用いた。この雅号は、尊敬する荒木貞夫大将の名にも通じるものであった。『新樹』の雅号は、前期の肉筆『吉野の村上義光』にもみられる。同じ年の十一月号から『キング』に連載の吉川英治『魔粧佛身』も、挿絵は彦造であった。吉川が彦造の力量を高く評価していた一端が窺える。」(渡辺圭一「伊藤彦造の歩んだ道」:『伊藤彦造イラストレーション』河出書房新社、1999年)、と、一時ほされていた雑誌に復活するきっかけは、吉川英治の指名によってだったことや、吉川英治から贈られた雅号である事がわかった。




挿絵:伊藤彦造『天兵童子