2008-06-23から1日間の記事一覧

華宵事件が、結果的には大衆小説の挿絵を導きだし、挿絵の一つのジャンルを確立し成就させる遠因になった。まさに「災い転じて福となす」だ。

その後、昭和12(1937)年には、華宵と講談社は和解し、久々に華宵は『少年倶楽部』に復活した。翌年には赤川武助「源吾旅日記」(『少年倶楽部』昭和12年)が一年間連載され、その挿絵を担当した。『幼年倶楽部』にも挿絵を描き始め、互いのわだかまりも消…

一方、華宵がいなくなり発行部数が落ちてしまった『少年倶楽部』の編集長加藤謙一は、華宵と親しかった野間清治社長に相談したが「一人のスターに頼っているから、こんなばかげたことになるんだ。雑誌は挿絵で売るんではない。活字で売るんだ。」(『少年倶楽部時代』)と一括される。『少年倶楽部』はこの時から、読み物に重点を置く編集方針に変更し、新しい才能の発掘に東奔西走した。その結果児童出版史上に残る『少年倶楽部黄金時代」を築き上げる。

吉川英治「神州天馬侠」、挿絵:山口将吉郎 高垣眸「龍神丸」 佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」「紅顔美談」「少年讃歌」「一直線」 山中峯太郎「的中横断三百里」 などが連載され、読み物中心の内容本位の構成になり、次第に落ち込みは回復し、ついには昔日…

実業之日本社『日本少年』に移った華宵は、大正14年新年号の表紙絵を描き、さらに後年の国文学者池田亀鑑(芙蓉)「馬賊の唄」の挿絵を担当。『婦人世界』には「文芸名作絵画」、『少女画報』には福田正夫『華麗の鞭』『破れ胡蝶」、『主婦の友』に「九条武子夫人・無優華の聖女」と「吉屋信子「一つの貞操」「暴風雨の薔薇」、朝日新聞には三宅やす子「奔流」、時事新報には「晴夜」などなど、関東大震災で打撃を受けた出版社が活気を取り戻す中、人気挿絵画家の争奪戦がくりひろげられ、華宵は多忙を極める。

挿絵:高畠華宵『馬賊の唄』(『日本少年』実業の日本社、大正14年)、『名作挿絵全集3』より転載。