挿絵の歴史を変えたと云われる石井鶴三の挿絵。中でも『東京』(上司小剣、朝日新聞、大正10年)、『大菩薩峠』(中里介山、毎日新聞、大正12年)、『宮本武蔵』(吉川英治、朝日新聞、昭和10年)、『国定忠次』(子母沢寛、毎日新聞、昭和8年)の挿絵の評価は高い。


大菩薩峠』は原稿用紙にすれば13,000枚にもなるかという記録的な大長編小説ということでも知られている。


(画像が見えたり見えなかったりしています。原因不明です。)



石井鶴三/挿絵、上司小剣『東京』(朝日新聞大正12年



石井鶴三/挿絵、中里介山大菩薩峠』(毎日新聞大正14年



石井鶴三/挿絵、子母沢寛国定忠次』(朝日新聞昭和8年



匠秀夫は著書『近代日本の美術と文学』(木耳社、昭和54年)に
「江戸時代の浮世絵と稗史、読本類との挿絵の関係は明治に入っても変わることがなかったが、二十年代になると、竹内桂舟、富永永洗、小堀鞆音等々新進日本画家が挿絵界に登場するようになり、一つの画期をつくることになった。ついで、挿絵史における新時代は関東大震災前後の頃であり、浮世絵系の挿絵が決定的に主座を失うことになり、日本画家と並んで洋画家が続々登場するというこの新気運は、石井鶴三が幕あげ役をはたしている。」と鶴三の挿絵の勝を歴史の中に位置づけている。


さらに続けて
「それは大正十年(第一部)、十二年(第二部)に、東京朝日新聞に連載された上司小剣の小説『東京』への鶴三の挿絵が先駆役を果たし、十四年の『大菩薩峠』への挿絵が決定打となったのである。」とのべている。


後続の出現にも鶴三が果たした役割の大きさを高く評価し、「挿絵家としての木村荘八や河野通勢の登場は、大正十三年に始まる白井喬二の『富士に立つ影』(報知新聞連載)への挿絵であるが、それは、一つには春陽会の先輩であった鶴三からの刺戟によるものであり、鶴三をとっぷとして、荘八、通勢、さらに小杉未醒山本鼎などを擁した春陽会は、昭和二年の第五回展から、他の団体には見られないユニークな挿絵室を特設するようになった。」
と、それまで低く見られていた挿絵をお山の上の展覧会で展示するという前代未聞の行動に出たのも鶴三の果たした手柄だった。