百穂の装丁に関する資料漁り

百穂の自著『歌集 寒竹』(古今書院昭和2年)は歌集なので装丁の話などはなくて当然かも知れないが、「巻末記」に、わずかに美術や装丁にふれている箇所を見つけた。



「明治三十二年の春に、東京美術学校選科を卒業して羽後角館の郷里に歸った。……三十四年、親友結城素明君の勧むるまま。その四月に再上京して、同君の許に転リ込んだ、君はその頃一年志願兵として、近衛歩兵二聯隊に入営中であった。留守番といった格で食客となったのである。」

「これより先き、素明君の主唱によって、絵画界に於ける冩生主義の旗幟を鮮明にした无聲會が組織せられた。そして僕もその僅かな同人中に加へられたのであった。この會は當時の畫壇に瀰漫してゐた理想派(観念派朦朧派などとも稱せられた)に對して起つたのである。」と絵画に関しては(短歌に関してもだが)素明から受けた影響が大きかったようだ。


「三十六年にはアララギの前身馬酔木が発刊された。素明君も編輯者の一員であった。……三十七年、故渡邊千春氏が社長で、電報新聞が創刊せられた、僕も畫報部員として入社した。新聞社關係の初めである。編輯局長は羽仁吉一君で、寒川鼠骨君、河井酔茗君、窪田空穂君などと机を並べてゐた。」この頃に出会った人間関係が百穂の人生に大きくかかわっていく。

「四十年の冬、西園寺内閣の議會から国民新聞へ入社して、そのスケッチを擔任することになった。四十三年……日々忙はしい社の勤めや。書籍雑誌の装丁などに、自然興味を持って來たし、またそれによって、生活費を得たのであった。」と、この頃から装丁に興味を持ち出したことがわかった。


明治43年頃の装丁というと、今、調べることができる範囲では
永井荷風『あめりか物語』(博文館、明治41年
若山牧水海の声』(生命社、明治41年
・「斯民」第参編第拾四号(報徳会明治42年
・千葉源之助他『田沢湖案内』(角館町宮本商店、明治44年
等がある。でも、これらの本は見たことがない。『海の声』は250,000円もする。復刻版があるようなので探して見よう。それにしても百穂装丁本探索は、前途多難ですね。





「大正五六年頃から、新聞社の方も稍々自由な身になった。版畫やスケッチに没頭して、しばらく捨ててゐた畫にも親しむ氣分に向いてきた。」


「自分の繪はすべてに於て未完成品である。花鳥畫も、山水畫も、人物畫も、何物にも達してゐない。自分の繪は芥箱に等しいのかも知れぬ。よくいっても田舎の雑貨店のやうなものかもしれぬ。砂糖もあれば釘もある、草履や洋傘もあれば、一寸した万年筆もある、といったやうなものであって、自分から藝術品と名乗るほどのものはない。然しただ造花はない、研をかけた貝細工やまがひものの寶石は持ち合わせない。」

昭和2年、50歳での反省文だ。