1902年に(明治35)年大阪に三和印刷所が設立され、杉浦非水は黒田清輝の推薦で図案部主任に採用される。翌1903年大阪で開催されることになった大阪第5回内国勧業博覧会に向けて雑誌「三十六」が刊行され、非水は表紙デザインを担当することになる。



杉浦非水;装丁、「三十六年」1号(明治35年)
アール・ヌーボー風にアレンジしたカキツバタの連続模様と、欧風建造物の博覧会会場正門を赤のシルエットを組み合わせてあしらった図案は、斬新で欧風主義の時代の気風にも相まって評判が高かった。



杉浦非水;装丁、「三十六年」3号(明治35年)



杉浦非水;装丁、「三十六年」4号(明治35年)


第5回内国勧業博覧会は全国から来阪する人々を迎え非常に活況を呈した。このため広告、宣伝用印刷物のほか、デザインの注文が三和印刷所図案部に集中したが、非水はアール・ヌーボー様式を採り入れた曲線を多用する図案を描きまくったという。非水の描くアール・ヌーボー様式の図案は博覧会の欧風イメージとも調和をみせて大流行し、太い曲線で輪郭を描くこの様式を別名「うどん」という呼称まで生み出した。



第5回内国勧業博覧会会場全景



第5回内国勧業博覧会会場正面


この図案部は博覧会の終了と共に解散してしまうが、図案部を置いて専門の図案家と云う職業を創ろうとしたことや、アール・ヌーボー様式を採り入れた新図案を作り出したことなど『三十六年」の発行は、近代デザインのはじまりの1ページを歴史に刻んだ。


その後非水は、島根県浜田の中学校の先生に1年ほど勤め、1905年に東京中央新聞社に入社した。中央新聞社は初めて四色刷輪転機を備え付け、中澤弘光、平福百穂結城素明、後に斉藤五百枝などに挿絵を描かせた。