今年は、1920-30年代の装丁の話を書こうと思っているが、装丁を集めるだけでなく、当時の社会的背景も頭に入れておこうと思い、『ロストゼネレーション 失われた世代1920-1929]』(毎日新聞、2000年)を東京古書会館・がらくた市で1000円で購入した。
まず、後書きを読んで、この後書きに感動し、これだけで元は取れたような気分にさせられた。3500字ほどもある後書きとしては長めの文章に編集長・西井一夫氏のうんちくがたっぷりと込められていた。何よりも簡潔明瞭に1920年代が書かれていながら、執筆者のこの本にかける情熱が伝わってきた。
ロストジェネレーションとは第一次世界大戦が終わった1920年から世界大恐慌の1929年の間をそう呼ぶのだそうだ。
「……いずれにせよハードボイルドの世界というのは、死がただの心臓の鼓動停止にすぎない、という医学的事実以外のものではない、という冷静な事実に基づいたせかいであり、そこには愛とか故郷とかの叙情的要素は排除されている。そのあたりがロストジェネレーションと同質の「失われた」なにかを共有しているとおもわれる。20年代に写真の世界で言われた「ノイエ・ザッハリッヒカイト」は新即物主義と訳されたが、その即物的感性が20年代の共有された感性ではなかったか。マン・レイらのカメラを使わぬフォトグラムといわれた写真技法も考えてみればこれと同根だと思える。」(前掲)
「共有されていたはずのある世界が実は既に失われていた、とする世界の喪失感こそが、大戦間に世界を覆ったロスト感覚だった。その失われた世界の実相に直接迫ろうとする時にハードボイルドな即物的アプローチが唯一残されていた、と見ることができよう。叙情の「情」の世界が失われた後の世界には「叙事」の「事」しか残されてはいなかった。愛も性も死も、そうしたこれまで「情(なさけ)」の領域に属すると考えられていたことが、この時代から「事(こと)」の領域のことにすぎないことと考えられ始めていた。落としてしまえば割れて壊れてる「生卵」ではなく落としても割れるのは殻だけで中身は固ゆでで大丈夫という。尊厳を傷つけられた人間の精一杯の自己保存了見が露呈している。」(前掲)横光利一の機械主義芸術論・新叙情主義との関連性が見え隠れする。
「『個性』などという限りなく「情」に近接していたものは、信用しえぬものと化し、持っている物がものを言う社会が来ていた。風格や品格等より、一獲千金の成り上がりであろうと、物持ちが優位の社会が来ていた。」(前掲)座頭市が「いやな渡世だな〜、」と嘆いていたのは70年代だったが、今にも通ずるものがある。
「第一次世界大戦がもたらしたものは、これまで、人間の再校の到達地点だ、と信じられてきた西欧文明の直中で、信じがたいことに無残極まる人間の尊厳を根底から破壊しつくす戦争行為が何年にもわたって続けられたことにより。『神』の下にあるはずだった人間存在そのものが信じがたいものとなったことが一番大きな喪失物だった。最大の遺失物は、じつは『神』の存在だった。『神』は死んだ、というのが、20世紀の始まりの合言葉だった。」(前掲)長い引用だが、20年代を実によく言い当てているように思えたので、あえて引用させていただいた。