1930年代の民衆の表現への欲望を浮き彫りにし、思想性の違いを超えて迎えられた彦造のエロティシズム

石子順造伊藤彦造の思想性の強い表現手段について「三・一五や四・一六の共産党の検挙や治安維持法の改定を引きついで、浜口首相が撃たれ、『満州事変』が始まり、十月事件から血盟団事件五・一五事件、そして国際連盟の脱退から滝川事件、共産党の岩田義道、野呂栄太郎小林多喜二らの虐殺と佐野学、鍋山貞親らの転向といった時代状況のなかで、またたくうちに挿絵画家として自他共に一方の雄と認められる地位を確保した伊藤彦造は、一九三〇年代における青年層の直接行動をさぐりつつあった飢餓感の深みに、もっともラディカルに対応しうる表現を持ちえた、と想像するのは無理ではなかろう。」(『俗悪の思想』)と評価する。


さらに「それは彦造自身の意図すらもこえて、左翼的な青年の心情とみごとにフィットしうるものであったように、ぼくには思える。自虐的なまでに行動に賭けて死を引きつけざるをえなかった若者の官能は、彦造の絵に性的な興奮を覚えたとすら推察したい。」(前掲)



挿絵:伊藤彦造、『合掌金剛』(1927年)


伊藤彦造が『天皇』崇拝者であり、軍国主義者であることを知って、彼の絵の評価を変えようというような愚劣な試みを避けたほうがいいことは、いまさらいうまでもあるまい。彦造のイデオロギーは素朴な民衆の生活者意識につぎ木されたとはいわないが、一筆一筆描き込んでいく作画のかかわりは、むしろそのイデオロギーイデオロギーとしていっそう完結的な浮標としていく心的な運動を継起していくはずであり、表現は表現過程を自立せしめるような運動にのりながら、官能のレベルに反転してこよう。彦造の絵が彦造自身の意図をもこえて、左翼的な青年の心情にも見事にフィットしえたのではないかと僕が推察するのは、その位相である。」(前掲)



挿絵:伊藤彦造、『剣閃』(1927年)

「言葉によって整序されうる意図的な部分をなぞって単純に図解するような絵は、表記ではあっても表現とはいいがたいし、イデオロギーが言葉として表現となりうるのは、いわばその文体だといってもよく、絵にしてもマチエールにこそ内在化されるといわねばならないだろう。……ぼくは、とにかく劣視されがちな大衆誌のさし絵に、それも主として男性の画像に『昭和』初期の時代状況と不可分な死とエロスへの思念の一端が剛直な構えでうかがえると思って伊藤彦造にふれてきた。」(前掲)