震災を機に

 
有隣堂の新刊紹介が独立して輸出ばかりの竹村商会ができ、そこで日本の書物の輸出を受持ち、この本はどのくらい送ったらよいか、これはあまり専門的すぎるので数は出ないなどと自分で考えてやっておりました。その時ロスアンゼルスの小野さんと直接交渉しておりましたが、小野さんが東京に来て駿河台で五車堂を始めたので、そこの支配人になった。その後、震災をけいきに本格的な執筆生活に入ったわけです。」と、震災後からが『現代日本文学大年表」(改造社昭和6年)、『現代筆禍文献代年表』(粋古堂)など、私が知っている齋藤昌三が始まったわけだ。
 
大正末期から本格的に文筆活動に専念し、雑誌「愛書趣味」「書物展望」「書痴往来」などを主宰。また書物展望社を経営し、番傘や型紙など廃品再利用の奇抜な装丁で、ゲテ装本といわれた書物を120〜130点も世に送り出した。
  
紀田純一郎「蔵書一代 齋藤昌三」(『読書人の周辺』実業之日本社、昭和54年)には「三十八年、日露戦争のおり入社したハマの原合名会社。そこに例の安藤・今井という古川柳研究会の猛者がトグロをまいていた。この偶然、さらに取引先正金銀行の小島烏水と知りあったことが彼の将来を決定した。自伝によれば、そこから『脱線』して発禁ものに興味を抱き、ひまさえあれば古本屋まわりに現をぬかすようになった。『明治文芸側面鈔』五冊(大正五)はその第一期の成果だ。ただちに発禁。夕食中に警官が来訪、父親を驚かせた。」とある。