101冊の挿絵のある本(70)その2…内田巌:挿絵、徳田秋声『縮図』(「都新聞」、昭和16年6月28日〜9月15日)に連載された挿絵80点を2回に分け、今回はそのうち40(41~80)点を紹介します。
長編小説『縮図』は、秋声最晩年の1941年(昭和16年)6月28日から9月15日まで、『都新聞』に連載された。挿絵は内田巌。白山で置屋を営む元芸者の小林政子をモデルに、芸妓の世界を描いていたため、情報局から太平洋戦争直前の時局柄好ましくないという干渉をうけ、第80回で連載を中絶。以後続きが書かれることはなかった。
内田巌(うちだ いわお、1900年2月15日 - 1953年7月17日)、評論家内田魯庵の長男。
経歴
東京出身。東京美術学校で藤島武二に師事。1926年卒業後、帝展に入選。1930年から1932年にかけてフランスに渡り、アカデミー・ランソンで学ぶ。1936年には挙国一致体勢の推進をはかる美術界の潮流に対抗して、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を結成。 しかしながら、大戦中の1943年には、聖戦画報 戦ふ東條首相に揮毫している。
1946年日本美術会を結成し初代書記長に就任、1948年には日本共産党に入党し、戦後のプロレタリア画壇にあってはその牽引役として重きをなした。戦後画壇における政治的な活動でも知られる。
陸軍美術協会理事長として戦争画を量産した藤田嗣治の戦争責任の糾弾を繰り広げた、ということが従来から言われてきたが、近年出版された富田芳和の「なぜ日本はフジタを捨てたのか?-藤田嗣治とフランク・シャーマン1945~1949」によると藤田と内田の関係は従来から言われてきたような単純なものではなかったことが明かされている。内田は先輩として藤田を尊敬しており、そんな内田を藤田も可愛がっていた。日本画壇の戦争責任がGHQから追及される恐れが出てきて、内田は断腸の思いで藤田が全責任を負ってくれるよう頭を下げ、これを受けて藤田はフランスに出国することになったのが真相だという。
代表作は「歌声よ起これ(文化を守る人々)」(1948年)、「ラ・ペ(平和)」(1952年)など。
長女の内田莉莎子は翻訳家でポーランド文学者・吉上昭三の妻。次女の路子はデザイナー堀内誠一の妻。( 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
徳田秋声「縮図」が検閲を受け連載中断になった真の理由は、挿絵画家・内田巖がこの小説は秋声の「ヒューマニズム的抗議」と解読し、この内容を伝えるため「現実の痛烈な暴露」表現として、ドイツの女流画家ケーテ・コルヴィッツからヒントを得た「妹を背負う少女」などの挿絵を描いたことではないのか? 丁度この時期に宮本百合子が反戦画家としてケーテ・コルビッツを紹介したことや、1934年(昭和9年)に政府が文芸統制のために文壇人を集めた文芸懇話会の第一回会合において、「日本の文学は庶民階級の間から起り、庶民階級の手によつて今日まで発達して来たので、今頃政府から保護されると云はれても何だかをかしなものでその必要もない」と発言し、統制の出鼻を挫いたこともあった。このような秋聲の行動も内閣情報局から目をつけられることになった一因であろう。詳しくは下記のブログでご覧ください。