【101冊の挿絵のある本(53)…武井武雄、『赤い鳥』デビューの挿絵!】

【101冊の挿絵のある本(53)…童話童謡雑誌『赤い鳥』の表紙絵全196点の内、武井武雄が1冊だけ描いたのはなぜか?】『赤い鳥』は1918年7月創刊号から昭和11年10月号まで全196冊刊行されました。表紙の絵を描いたのは、清水良雄が165冊、鈴木淳が16冊、深沢省三が12冊、武井武雄が1冊を描きました(不明2冊)。


⚫️なぜ武井武雄が、『赤い鳥』表紙を1冊だけ担当したのか?
  武井が表紙絵を担当したのは第21巻第4号『赤い鳥』(昭和3年10月1日発行)だけで、この号には、挿絵などは描いていません。

 

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武井武雄画「兎の馬車」(『赤い鳥』第21巻・第4号表紙、昭和3年10月号)

 


 武井が最初に『赤い鳥』に関わったのは、第21巻第1号(昭和3年7月発行)に、選者の童話・海達貴文「晝(ひる)」と北原白秋選推奨自由詩・沢田豊「月夜」の挿絵を2点描いています。

 

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武井武雄:画、海達貴文「晝」挿絵(『赤い鳥』第21巻第1号、昭和3年7月)

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武井武雄:画沢田豊「月夜」挿絵(『赤い鳥』第21巻第1号、昭和3年7月)




 2回目の寄稿は、北原白秋「お庭の夢」挿絵(『赤い鳥』第21巻第2号、昭和3年8月発行)1点。

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武井武雄:画、北原白秋「お庭の夢」挿絵(『赤い鳥』第21巻第2号、昭和3年8月)

 お母さんの髪の毛や背中がレース模様になっていたり、花が異常に大きく根元に刺繍のような模様があったり、寝転んでいる犬が小さかったりと、写実風の絵を良しとする鈴木三重吉や清水良雄にとっては異様な絵に見えたのではないだろうか? 昭和3年に『武井武雄手芸図案集』(萬里閣書房)を刊行していることもあって、挿絵の中にも刺繍の模様がたくさん配置されている。


 3回目は、北原白秋「射的場」挿絵(『赤い鳥』第21巻第3号、昭和3年9月発行)1点だけ。

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武井武雄:画、北原白秋「射的場」挿絵(『赤い鳥』第21巻第3号、昭和3年9月)


 そして、4回目でやっと第21巻第4号『赤い鳥』表紙絵を描いています。
こうしてみてくると、毎号、北原白秋の作品の挿絵を描いているのがわかります。つまり、武井は白秋のお気に入りの挿絵画家で、白秋は、『赤い鳥』で描いている画家たちではなく、『赤い鳥』の鈴木三重吉や清水良雄に武井を紹介してまでも、武井に描いてもらいたかったのではないでしょうか?

 そんな強引さは、鈴木や清水にとっては、白秋の申し出といえども決して心地よいはずはないと思われます。

 

 この頃の武井は、大正10年頃から『子供の友』などに子供のための絵を描き始める。
大正11年1月に創刊された『コドモノクニ』(東京社)の題字と表紙絵を担当した。
大正12年には第一童話集『お噺の卵』(目白書房)を刊行し、17編の童話を発表し、ブックデザインや口絵、挿絵も描いた。
大正13年には『ペスト博士の夢』(金星堂)、大正15年『ラムラム王』(叢文閣)、大正15年『花の伝説』(実業之日本社)、昭和2年丸善から発刊された『あるき太郎』、『おもちゃ箱』、『動物の村』などなど精力的に出版活動をし、大正14年には、銀座・資生堂で「武井武雄童画展覧会」を開催するなど大いに活躍されていた。
昭和2年には、岡本帰一、川上四郎、清水良雄、初山滋村山知義、深沢省三らと「日本童画家協会」を設立する。昭和3年には「武井武雄手芸図案集」(萬里閣書房)を刊行している。

 

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武井武雄:題字・装画『コドモノクニ』創刊号表紙、(東京社、大正11年1月号)。

 

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武井武雄;画『コドモノクニ』表紙絵(東京社、1927年6月号)

 

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武井武雄手芸図案集」(昭和3年・萬里閣書房)

 

 

このように、武井自身も多忙を極めている中で、すでに主要な挿絵画家、清水良雄、鈴木淳、前沢省三などが活躍している雑誌に割り込む気持ちはなかったのではないだろうか。さらに武井は、受注生産の挿絵ではなく、自ら創作し発信していくスタイルが多いので、せっかくの白秋の誘いではあったが、『赤い鳥』での活動を辞退したのではないかと推察します。

 写実風の清水の画風を良しとして、『赤い鳥』の出版美術に関するほぼ全権を清水に委ねた鈴木にとっても、デフォルメされた武井の画風を素直には受け入れられなかったのではないでしょうか。のちに白秋と鈴木も意見が衝突し、白秋が『赤い鳥』から手を引くのを見ても、武井が『赤い鳥』に参加した頃からすでに火種はあったのではないだろうか?

 

 

『赤い鳥』(19巻第2号、昭和2年8月)の巻頭に、武井武雄の著書の広告が掲載されているのも、武井が『赤い鳥』の挿絵画家とならなかった理由を裏付けているかのようで面白い。

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『赤い鳥』の巻頭ページに掲載された武井武雄の著書3冊の広告(『赤い鳥』19巻第2号、昭和2年8月)