新聞小説「縮図」が検閲を受け中断した真の理由

徳田秋声「縮図」が、なぜ検閲を受け新聞連載小説を中断しなければならなかったのか。なりゆきは下記の通りであろう。
 白山で置屋を営む元芸者の小林政子をモデルに、芸妓の世界を描いていたため、太平洋戦争直前の時局柄に芸者の行状を臆面もなく扱うとは好ましくないという、内閣情報局の干渉を受け、文と挿絵が相補って社会的弱者の悲哀を描いたこの新聞小説は「非常時に芸妓の小説など時局を認識しないにも程がある」として軍部から干渉を受けることとなった。軍部は、大家である徳田秋声に気遣い、「芸妓に日の丸を持たせて、出征軍人を見送りをさせては呉れまいか(内田巖「不自由時代の出版」、『別冊政界ジープ』1951年1月、16頁)と提案したが、徳田は、「妥協すれば作品は腑ぬけになる」とこれを退け、連載は中断された(徳田一穂「追記」、徳田秋声『縮図』小山書店、1946年318頁)。
 戦意の高揚に役立たないものは非国民的だとみなされ、多くの芸術の芽が摘み取られた時代である。


内容としては、決して芸者の浮いた話ではなく、貧乏靴屋の長女であるというだけで芸妓にならざるを得ずそこから抜け出られない、社会構造に従うしかない女性の悲しい運命が描かれており、ある意味で社会批判でもあるが、下記のような戦意高揚らしき挿絵もあるのだが……。

図1.内田巖:画、徳田秋声「縮図」第15回挿絵(都新聞、昭和16年7月12日)


広津和郎の「徳田さんの印象」によれば、1934年(昭和9年)に政府が文芸統制のために文壇人を集めた文芸懇話会の第一回会合において、「日本の文学は庶民階級の間から起り、庶民階級の手によつて今日まで発達して来たので、今頃政府から保護されると云はれても何だかをかしなものでその必要もない」と発言し、統制の出鼻を挫いたこともあった。このような秋聲の行動も内閣情報局から目をつけられることになった一因であろう。


 喜夛孝臣氏は縮図の挿絵について「当初、内田がこの仕事で力を入れたのは、日本髪の美しさの表現であった(図2)。この日本髪の美しさは徳田が連載第2回で、『世界戦以後のモダニズムの横溢につれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では時代錯誤の可笑しさ見すぼらしさをさへ感じさせたこともあったが、(中略)今日本趣味の勃興の陰、時局的な統制の下に、軍需景気の煽りを受けつゝ、上層階級の宴席に持囃され、たとひ一時的にもあれ、曾ての勢ひを盛返してきた」と書くように戦時下に再認識されたものである(「昭和戦前期における内田巖の活動─“リアリズム”をめぐって」早稲田大学會津八一記念博物館研究紀要第9号、2008年3月)」と、記している。

図2・内田巖:画、徳田秋声『縮図』第7回(都新聞、1941年7月4日)


たしかに「縮図」の挿絵には、喜夛氏の指摘するように日本髪を描いた挿絵は多い。まるで昭和初期の髪形図録でもあるかのようだ。

内田巖:画、徳田秋声「縮図」第12回挿絵都新聞昭和16年7月9日



内田巖:画、徳田秋声「縮図」第24回挿絵都新聞昭和16年7月21日



内田巖:画、徳田秋声「縮図」第25回挿絵都新聞昭和16年7月22日



内田巖:画、徳田秋声「縮図」第29回挿絵都新聞昭和16年7月26日



内田巖:画、徳田秋声「縮図」第38回挿絵都新聞昭和16年8月4日


 さらに喜夛氏は「だが仕事を進めていく内に、内田は、社会のひずみをそのままに映し出す花柳界の生活を題材にした『縮図』を『人間の悲しい宿命とその宿命を巻き起こした社会的環境の非人間性』に対する、徳田秋声の『ヒューマニズム的抗議』として読むようになる。この内容を伝えるために、例えば『現実の痛烈な暴露』となる表現として、ケーテ・コルヴィッツからヒントを得たという妹を背負う少女の挿絵を描いている(図3)。 

図3.内田巖:画、徳田秋声『縮図』第78回(都新聞、1941年9月13日)


このように文と挿絵が相補って社会的弱者の悲哀を描いたこの新聞小説は、『非常事に芸妓の小説など時局を認識しないにも程がある」として軍部から鑑賞を受けることとなった。軍部は、大家である徳田秋声に気遣い、「芸妓に日の丸の旗を持たせて、出征軍人を見送りをさせては呉れまいか」(内田巖「不自由時代の出版」『別冊政界ジープ』1951年1月16頁)と提案したが徳田は『妥協すれば作品は腑ぬけになる』とこれを退け、連載は中断された。こうして内田の挿絵も打ち切られてしまったのだが、『有島生馬氏が私に〈文章よりも君の絵が刺戟したのだよ、責任は君だよ〉と云はれたとき私は心の片隅で静かに微笑んだ。私は芸術家として徳田先生とその行動を共になし得たからだ(内田巖『縮図』、『改造』28巻3号1947年3月)』。と社会的圧力に抗し、芸術家の良心を全うしたことを誇りにさえ感じたようである」(前掲)と、説明している。

ケーテ・コルヴィッツ「子を抱く女」1910頃



ケーテ・コルヴィッツ『種を粉に挽いてはならない』1942年



内田巖:画、徳田秋声「縮図」第18回挿絵、都新聞、昭和16年7月15日


宮本百合子がケーテ・コルヴィッツを「……「婦人は同僚でもなければ愛人でもなく、ただ母たるのみ」…この侵略軍人生産者としてだけ母性を認めたシュペングラーの号令をきいただろうか。その頃から日本権力も侵略戦争を進行させていてナチス崇拝に陥った。ケーテの声は私たちに届かない」(「ケーテ・コルヴィッツの画業」初出:「アトリエ」1941〔昭和16〕年3月号)と紹介したことも、時期を考えると「縮図」の検閲に影響を与えたのではないだろうか。